だるろぐ

明日できることは、今日しない。

『兵器と戦術の日本史』

兵器と戦術の日本史 (中公文庫)

兵器と戦術の日本史 (中公文庫)

『兵器と戦術の世界史』 - だるろぐ の続編。前作と違い、ケースが日本史に絞られている。対外戦争と異なり、内戦は彼我で兵器の進歩と用兵に大きな違いがない。また、地理的なスケールも小さいので、説明が割かし一本道でシンプルだ。そのため、兵器の進歩をちょっとだけ先取りした勢力や、既存の兵器の長所をうまく引き出した戦術を編み出し・一般化した勢力が勝利することになる。そのため、『兵器と戦術の』という主題が前作よりも活きているように思う。

とはいえ、対外戦争がないがしろにされたわけではない。

敵・味方双方の兵器装備あるいは兵略思想にあまり差のない内戦と違い、異なっていることの多い外国軍との戦いでは、双方の相違とその影響をはっきり見せつけることが多い。

むしろ、古代の白村江の戦いまでの“海北四百年戦争”、元寇、秀吉の朝鮮出兵、日清戦争以降の戦い(前作に譲っている部分も多い)などにも重点的に項が割かれていて、(残念ながら)いかに日本が学ばなかったのかが浮き彫りにしている。失敗を直視して教訓を得ることは難しいし、成功したとしても、それを反省して戦訓を得ることはなおさら難しいことが痛感させられる。

第一章 倭歩兵の興隆と衰退

出土した武器・防具から当時の戦いを描き出し、また大胆に王朝交代説の跡を辿った章。本書の中でも一番面白い章だった。

日本が統一されたころ、武器は青銅製の手矛(粗末な刃物に柄を付けてちょっとリーチを長くしたもの)が主兵器で、盾をもち、鎧はあっても貧弱なモノだったようだ。このような世界では、いかに鉄を握るかが勝利のカギになるだろう
後漢書に現れる帥升は朝鮮半島を目指したが失敗、ついで漢に使節を送り友誼を図ろうとするが、それは朝鮮半島の弁辰に鉄の産地があったこと、漢が鉄の先進国であったことが関係しているらしい。

やがて弥生時代後期になると鉄製の長剣や太刀、鏃などが出現するようになる。とくに鏃に鉄が使えるようになると矛の利用が衰退し、長射程の弓と近接戦闘用の刀剣という組み合わせが日本では主流となっていったようだ。置き盾をはさんで矢戦を行い、それでも敗走しなければ白兵突撃でケリをつけるという古式ゆかしき戦い方はこのころに確立されたようだ。

よく考えれば当たり前の話なのだけど、大弓と槍(ポールウェポン)と持ち盾のすべてを同時に備えるのは困難だよなぁ、というのが個人的な気付きでもある。鎧で十分に防御できないならば両手がふさがる槍鉾突撃は無謀で、同じく盾を持たないならば大弓+置き盾によるアウトレンジ攻撃+剣による近接攻撃の方が無難だよなぁ。日本は良質な馬を産出せず、騎兵があまり育たなかったので、置き盾を運用するような機動力のない戦術が十分に機能したってのもあるかも。

日本軍は弓兵・歩兵の混合兵団でのちに朝鮮半島にも進出し、一定の成功をおさめる。しかし、朝鮮騎兵の装甲が充実してくると次第に分が悪くなる。弓矢は通らなくなり、歩兵でも食い止められない。これに山岳要塞で足止めする戦法を組み合わせると、兵站に難のある日本軍は徐々に後退を余儀なくされていく。そして、白村江の敗北により“海北四百年戦争”は終焉を告げることになる。

しかし、新羅が諜報・暗殺により日本の侵略を阻止していたという説は、ちょっとエキセントリックすぎるかなぁ、というのが正直な感想。

相手の戦闘力を失わせるには、目に見える兵器を使うほか、目に見えない兵器の仕様すなわち諜報活動が大きな役割を果たすことがある。日本が任那より撤退した経緯を概観したのは、その意味を含めてのことである。

日本は積極的に渡来人を受け入れていたが、その逆はあまりなかったと思うので、日本が朝鮮について知っていたことよりも、挑戦が日本について知っていたことのほうが多かった気がするし、外征の折に重要な人物が倒れ沙汰やみになることも少なくなかったことは確かだけれど、すべてが能動的な諜報活動の結果かといえば、それは想像の翼を伸ばし過ぎた観がある。

第二章 律令徴兵歩兵の誕生と終末

天武・持統以降の日本軍は、律令制による徴兵軍が主流になる。これは質よりも量を重視したやり方だったが、東北百年戦争ではこれが裏目に出る。結局、有力子弟から成る騎兵(のちの健児制)がなければ、剽悍な蝦夷に対抗できることができなかったようだ。以後は戦況が悪化すると健児重視、負担が大きくなると健児を廃止して歩兵重視にするといった感じ。

そして、やがて少数精鋭の騎兵の時代がやってくる。

第三章 少数精鋭騎兵の勝利

『センゴク』みたいなマンガを読んでいると、日本の武士は『三国志』みたいにポールウェポンを主兵装にしているような印象を受けるが、発祥の時点ではペルシアなどと同じ弓騎兵だった。

このことは以前にも『武具の日本史』という新書で読んだ気がする。

武具の日本史 正倉院遺品から洋式火器まで (平凡社新書)

武具の日本史 正倉院遺品から洋式火器まで (平凡社新書)

しかし、おもに平地の多い東国では悠長な矢戦に終始するのではなく、手っ取り早くケリをつけられる突撃騎兵戦法が行われ始める。源平合戦は、従来の矢戦から抜けられない平家と、騎馬突撃戦法を巧みに使った源氏の戦いでもあった。義経の鵯越などはその典型かもしれない。

東国源氏の考えは現代で言えば戦車師団方式であり、西国平家のそれは歩兵師団と戦車師団の中間、いわゆる機械化師団方式である。

第四章 突撃騎兵と矛歩兵衝突す

元寇では、少数精鋭の突撃騎兵である武士と、集団戦法を用いた元軍歩兵の戦いになった。元軍といえば“てつはう”のイメージがあるが、実際は攪乱用の短弓兵(威力の低さは毒で補われていた)+ポールウェポン持ちの突撃歩兵+投擲兵(のちの砲兵部隊に相当)がよく組織された混成兵団で、逐次少数で突撃するしか能のない日本の武士はいいカモだっただろう。

元軍の撤退により日本軍は運よく勝ちを拾うことができたが、その内容が反省されることはなかった。

「たとえ愚策でも勝利したとみなされるときは成功策とされる」の鉄則は見事に適用された。鉄砲も忘れられたし、矛は元弘の乱以後使われるが、これは古代の矛の復活現象である。

元軍の撤退が武士の勝利でないことを見抜いたものもいたが、科学的に分析されることはなく、単に「神国日本」思想の濫觴となったに過ぎない。

第五章 歩兵台頭す

それでも室町時代になると、古式ゆかしき掛け合い+騎馬突撃という戦場様式は守られなくなり、歩兵・騎兵の連合軍をうまく活用する武将が現れ始める。とくに騎兵主体の鎌倉側に対し、反鎌倉側はゲリラ戦法などを駆使して騎兵の機動力を抑え、コストの安い歩兵で効率よく勝つ方法を編み出しつつあった。

その完成ともいえるのが、槍歩兵の出現だ。槍を多く用いる戦法に先鞭をつけたのは楠家で、騎馬突撃兵側もこれに対応して五尺以上の大太刀をもつ者もあらわれたが、いまだ弓+剣騎兵からは脱しきれず、槍騎兵は出現していない。

第六章 足軽歩兵地位を確立す

応仁の乱以降は、長槍を備えた足軽が決勝兵力となっていく。胴丸などの強力な鎧が歩兵にも行き届き、戦死者の比率は極めて低下した。加賀の一向一揆などが勢力を保ったのも、ローコストな足軽歩兵が有力な兵種になったからと言える。

日本はこうして“士”の時代から“士卒”の時代へと変貌していくが(中国で言えば春秋から戦国への移行みたいな感じかな? いわゆる“下剋上”なんかも士ではなく卒が成り上がるという意味で同根の現象だと思う)、これは兵器と戦術が社会を変えていった好例になるだろう。

戦国時代は兵器装備さらに戦法が敵・味方でほとんど変わらないため、主将の統率および戦略戦術の如何、用兵指揮能力が勝敗を決するようになり、また精密な運用に耐えうる部隊の精鋭度も重視されるようになった。だいたいみんな槍兵を集中運用した長槍歩兵か、騎馬と歩兵を混ぜた騎歩チームで戦うのだけど、上杉と武田で兵種の比率が違うなんていう話も面白い。何を重視するかがちょっと違うんだね。

そして鉄砲が導入されると、その比率は次第に上昇していき(戦国末期5% → 信長10% → 秀吉20%)、日本は小銃歩兵国になっていく。

第七章 陸の鉄砲・海の大砲

小銃歩兵国になった日本は朝鮮に進出し、破竹の勢いで進軍する。それに対する明・朝鮮軍は城塞攻撃に特化した大砲には優れるものの、それ以外は半弓が中心で、日本のような突撃・白兵戦法が苦手だった。コストの高い騎兵は、日本の鉄砲歩兵へ投入するにはリスクが高すぎるし、日本側の武将は百戦錬磨で、多少の戦略的劣勢を跳ね返せるほどに戦術に長けていた。

しかし、砲の優勢は海戦においては優位に働く。船の備砲が発達していれば、船の装甲も発達しているのは道理で、朝鮮の船は日本の船よりもおおむね優勢で、これが朝鮮の役の不成功を招いた。

なお、江戸時代は平和だったので、素通り。

第八章 洋式近代軍の勝利

幕末・明治初期は火砲が著しく発展した時期だった。しかし、幕府はその重要性を認識できず、討幕側に後れを取る。しかし、討幕側、とくに長州は西洋の散兵戦術を表層的に取り入れたものの、銃剣による白兵突撃は軽視したので、しばしば決勝の機会を逃すことになった。本書では大村・山縣の用兵がかなり手厳しく批判されている。

長州征伐以降は各藩が洋式部隊の整備に努めたため、ふたたび兵器より戦術重視のフェーズに移行するが、最終的には海軍力が勝敗を決することになった。当時の艦砲は陸軍砲に大きく優越していた。

第九章 太政官徴兵軍勝利す

この章はおもに西南戦争が取り上げられているが、その少し前に日本は大きな選択をしている。志願制ではなく、徴兵制をとったことだ。これに対して、筆者は以下のように評している。

ヨーロッパの大陸で国境を接し、たびたび国力を傾けた陸戦を行い、平時から軍備拡充競争に火花を散らしている仏独が採用している、大量兵士即時動員を可能にする徴兵制に対し、四面環海の国防上の利点を生かし、平常はイギリス・アメリカのように少数志願の精兵で十分とする考え方の方が妥当だったといえよう。

徴兵側は長州藩で奇兵隊の“成功”を根拠に、あわよくば大兵による大陸進出を目指していたのに対し、志願側は薩摩藩のイギリス的体質を背景に、戊辰戦争での農民兵の戦闘力に限界があったことを指摘したであろう。実際、戊辰戦争の陸戦を決定づけたのは銃剣による白兵突撃を行った士族兵だった。

しかし、採用されたのは結局徴兵制で、西南戦争でも士族側は善戦するが、これまた海軍力を握った官軍側の勝利に終わり、徴兵制の優位が確認される。

どちらが正しい判断であったかは分からないが、個人的には徴兵軍で日清・日露戦争を勝ち抜いたことが、日本という国への帰属意識を高めたのは確かであり、国民国家へと脱皮できた大きな契機になったと思う。ただし、その道が太平洋戦争に続いていたと思うと、安易に肯定はできないとも思う。

第十章 日本帝国軍の盛衰

最終章は、小銃大好き陸軍が戦車と大砲に敗れるまで。細かい経緯は前作の方に詳しいが、自国を小銃程度しか装備できない貧乏国と自己規定することで、技術的なハードルに挑むことをせず、内向的な精神主義に陥るさまは、読んでいてもどかしい。

確かに貧弱な装備であっても、敵の長所を消し、自分の長所を引き出す戦術があれば逆転は可能だ。しかし、それには綿密な研究と準備、そして現場での正確な運用があってこその話。また、単純に追加コストが安いからと言って歩兵に過剰に依存し過ぎるのはよくない。問題は運用を含めた軍の限界的なパフォーマンスであり、そうでなければ単なる“安物買いの銭失い”に終わる。

――最後に。

兵器使用の狙いは、戦闘力を向上するにある。私はその戦闘力を単純に殺傷力移動力防護力の三つの機能に区分してとらえ、戦闘はこの三要素の衝突による、相手の戦闘力(戦意)の潰し合いとして観察することとした。この区分による方が、従来言われている機動力と火力という区分よりも、兵器の果たした役割を正しくとらえ、戦闘の実体を理解するのに容易だろうと思っている。
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三要素をどのように運用して勝利を得るかは、戦略・戦術の分野である。そしてその適否が勝敗を左右する鍵となることは、兵器による影響と同様決定的である。「兵器と戦術の日本史」とした由縁である。

本書の最初に掲げられたこの三つの分類については十分に活用されていないと感じたが、以下の点については十分に語りつくされてたと思う。

兵器あるいはその運用法の変化に伴って決勝戦闘力も変わったが、これがなんであったかを知ることこそ、その戦の本質を誤りなく知る最も大事なポイントである。私がそれぞれの時代でどの兵器が効果的に働いたか、敵を現実に敗走させたのはどの平気かということに焦点を置いたのはそのためである。