『貨幣の思想史―お金について考えた人びと』
- 作者: 内山節
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1997/05
- メディア: 単行本
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一章ずつ感想を書こうかと思ってたのだけど、ブログを書く時間がとれないまま、そのまま読み終えてしまった! モーゼス・ヘス、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、マックス・シュティルナーの思想に触れられたのが収穫かな。あと、ケインズの解釈は面白かった。この本を買うのにわざわざ貨幣を出してよかったと思う。
ただ、同意できるところはあまりなかった。
貨幣を必要としない関係を作り出すことによって、貨幣の領域を縮小させていく、そして貨幣を単なる交換財の地位にまで引き下げることがここでの課題である。
貨幣を必要としない関係を作り出すとは、自分の用語で言えば、贈与経済への回帰、使用価値を中心とした経済への回帰とでもなろうか。経済学がもっぱら「交換価値の秩序」を明らかにすることに終始する、とくにリカードゥから現在の主流は経済学に至る流れを批判しているのだと解釈した。ここは同意できる。
価値は固有のものとして存在するのではなく、関係が価値を生み出す。
その通り! ここも同意できる。
でも、この2つの言説は矛盾している。なぜならば、貨幣は固有のものとして存在するのではなく、(交換)関係が貨幣を生み出すからだ。交換は、貨幣なしには行えない。なぜなら、交換における媒介を貨幣と呼ぶのだから。交換関係を、計量可能なものとして記述したのが貨幣だ*1。
たとえば、Aのお米1kgとBの味噌300gを交換するとき、Aにとってお米1kgは貨幣であり、Bにとって味噌300gは貨幣だ。自分から出ていく価値は、もはや使用できないがゆえに使用価値をもたない*2。これから得るであろう価値の尺度、つまり交換価値としてのみ働く。Aの交換脳のなかでは、味噌300gが「お米1kg」と記述されているはずだ。ほら! その場限りの特殊なものではあるけれど、これはもう貨幣。あとは、お米と味噌のどちらが一般的貨幣の座を占めるか、という覇権の問題にすぎない。僕なら、お米が勝つ方にお米を3kg賭ける。
ともあれ。
結局、交換=貨幣なのであるから、「貨幣の領域を縮小させていく」ということは、交換を縮小させることに等しい。また、経済の本質は交換を媒介とした分業、財の社会的な分配であるから、すなわち、交換の縮小は分業と分配の縮小に等しい。試しに明日から交換なしで暮らしてみるとよい。「貨幣の領域を縮小させていく」ことの重大さが体感できるだろう。
「貨幣を必要としない関係を作り出す」こと、贈与経済へ目を向けることは大事だ。それには同意できる。けれど、交換世界は「止まっているためには走らなければいけないんだ」の世界。いまさらだれも、そこから降りることはできない。降りたとしても、かなりのモノを失ってしまうだろう*3。それを幸せだといえるのは実際にそれを経験した人に限られるし、その人が語ったとしてもそれはあくまでも「主観的」なモノに過ぎず、普遍的なものとして語れるものではないと思う。
とはいえ、エピローグはかなり面白い。貨幣、交換経済の虚構(フィクション)性があぶり出される秀逸なエピソードだ。