だるろぐ

明日できることは、今日しない。

『ニコマコス倫理学』 第1巻

ニコマコス倫理学 (西洋古典叢書)

ニコマコス倫理学 (西洋古典叢書)

アリストテレスは古代で研究しうるほぼあらゆる学問分野で偉大な足跡を残した哲学者で、後世の議論も彼の著作を前提にしているものが多い。なので、いちどは読んでおくべきであろうと思う。ただ、『ニコマコス倫理学』 から読むべきだったのかはよくわからない。途中で出てきたカテゴリー論は『形而上学』で触れられているのかな? もしかしたらそっちを先に読むべきだったのかもしれない。

第1巻 人生の目的

倫理学

あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべて何らかの善を目指していると思われる。

そうとも限らないと思ったけれど(かなりキツい仮定だ)、ここはアリストテレスの議論に乗っておこう。あらゆる行為には何らかの目標<善>がある。逆にいえば、目標としての<善>をもつ行為は、漫然と行った行為よりも“より善い”(効率的な?)行為になるはずだ。

ちょうど弓を放つ人たちのようにして目標を定めることによって、われわれは為すべきことを一掃よく成し遂げることができるのではないだろうか。

とりあえずやっているうちにだんだん目標が見えてくるということもあるけれど、はじめから目標を知っておけば無駄な回り道をせずに済むしね。「このような善を知ることは、我々の人生のとって重要な意味をもつはず」。

では、<善>とはなんなのだろうか。

とりあえず、ここでプラトンのように<イデア>をもちだすのはやめておこう*1。「何かそれ自体で存在する善きもの」*2は仮定しない。僕たちは議論を進めるにあたって、二つの事実のみに立脚すべきだからだ。つまり、「我々に知られているもの」と「無条件に知られているもの」(カントなら「超越的」と呼ぶんだろうか)だ。

そのような条件下で、<善>をカッチリと定義するのはちょっと難しい気がする(善がカッチリと定義できないと、共通善というものも定義できないので、共和主義とかコミュニタリアンにとってはちょっとツラい)。

――ひとつ考えられるのは、「行為A > 行為B」の「>」という比較の記号のことを<善>と定義する、といった方法だ(すべての行為が比較可能か、という問題はこの際おいておく)。となると、<善>は比較関係に置いて初めて存在し得る。つまり、単体としては存在しえないということになる。でも、「“>”のためにはどのような“知識”や“能力”が必要になるか」という問いは立てられるだろう(これは<イデア>をもちだすと<イデア>への愛が――なんてメンドい話になる)。つまり、どのような“知識”や“能力”を身につければ、善い行為を行えるのだろうか。

個別の行為を取り上げれば、きっとそのような“知識”や“能力”は無数にあるだろう。たとえば“善く泳ぐ”という行為には、筋力やスタミナ、抵抗の少ない泳法、ハイテク素材の水着、脱毛なんかが必要となるかもしれない。これをいちいち検討するのはちょっと無駄かなといった感じ。けれど、あらゆる行為を行う上で汎用的に使える、「もっとも統括的であり、何にもまして支配的な」“知識”や“能力”というものもあるかもしれない。

アリストテレスにとって、それは「政治学であるように思われる」。

“善く泳ぐ”という行為に「政治学」が関係があるとはあまり思えない。けれど、人間が生きるとき、個人“だけで”行える行為というのはまったくもってたかが知れている。ほとんどの行為は“社会”の力を得て初めて行える(“善く泳ぐ”のだって、オリンピックで金メダルをとるレベルまで精進しようとすれば、設備の整ったプールや優秀な指導者といった社会的インフラが欠かせない!)。つまり、個人が優れているということは大事だけど、それ以上にその個人が属する社会が優れていることが大事で、そのために個人が社会に何ができるのか、何をすべきかということが大事だ。

目的の達成や成果の保全は、たしかに、一個人にとっても望ましいことであるが、しかし民族や国家にとっては一層素晴らしく、かつ神的なことである。

「我々の研究はこうした目的を目指している」のであって、それは「一種の政治学」なのである。これをとくに「倫理学(ethics)」と呼ぶ。

三つの生活類型

第5章より。アリストテレスによると生活には「およそ3つの主要な類型がある」。

  • 享楽の生活(アポラウスティコス・ビオス)
  • 政治の生活(ポリーティコス・ビオス)
  • 観想の生活(テオーレーティコス・ビオス)

四つの自由 - だるろぐ と対応させると、

  • 享楽の生活 = サルの自由
  • 政治の生活 = 社会的自由
  • 観想の生活 = 対応なし

となるかな。あぁ、でも違うかもしれないな。贈与ピラミッドの頂上で自儘を楽しむことも、アリストテレスは「享楽の生活」にカウントしている。

「教養のあって行動的な人々は、幸福とは名誉のことだと」したり、「徳の方をこそ政治生活の目的」とみなす。しかし、名誉や徳でさえも、何かの“手段”であるように思える。「社会的自由」を享受するには、名声や徳を備えていた方が有利だ。なかには、一般市民の立場で「享楽の生活」を楽しむよりも、権力を握ってから存分に楽しんだほうがよいと計算している人もいるかもしれない。

また、“富”を追及する人もいる。しかし「金儲けをする人の生活はやむを得ず行われるものであり、また富は明らかに、我々の求めている善ではない」。おカネは、現実の可能性と交換しなければ価値はなく、それ自体だけでは何かに資することはない――とはいえ、手段としてはかなり強力な部類に入ると思う(経済的自由)。

どちらにしろ、結局のところ、こうした生活は“幸福”のようなものを目指しているように思える(「観想の生活」については後で述べるとしている)。

幸福

幸福のために何かを手段にすることはあっても、幸福を手段に何かを得るということは考えにくい。だから、幸福こそが人生の最終的な目的なのではないだろうか。

もっとも善きものは幸福である、と言明するのは、おそらく一般に意見の一致を見ているところであろうが、ここで望まれているのは、さらに幸福がなんであるのかを語ることである。

アリストテレスは「この作業は、人間の「機能(エルゴン)」が把握されたならば達成できるであろう」という。笛はよい音を奏でるのが善いのであろうし、マラソンランナーはよいタイムを出すのが善いのだろう。では、人間の「機能」とはなにか。

それは「生きる」ことだ。「生きる」といってもただ代謝を長く続けるというだけでは植物や動物と変わらない。人間固有の「生きる」という機能が問題となる。多分、人間固有の機能とは“理性<ロゴス>”なのだろう。それを働かせることこそが善い。

幸福とは「所有」できるのだろうか。
それとも「使用」できるのだろうか。

つまり、

「状態」なのだろうか。
「活動」なのだろうか。

アリストテレスは前者を支持しているようだ。何かをしているのが幸せなのではなく、何かをしうるのが幸せ?

我々は知恵のある人も、その人の魂の「状態(ヘクシス)」に基づいて称賛するのである。そしてわれわれは、人々のさまざまな魂の状態のうち、賞賛に値するものを徳と呼んでいるのである。

いろいろ考えてみたが、これは次の章の方がわかりやすいと思ったので後回し。

追記

途中でしんどくなった。のんびり頑張ろう。

*1:第6章

*2:P.11