だるろぐ

明日できることは、今日しない。

新しい元号について

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最初聞いたときは「厨二くさいな」と思った。漢籍にあたってもこのような言葉はあまり見当たらないだろう。けれど、いわれを聞いて「なるほど」とも思ったし、「なかなか悪くはないな」とも感じた。

しかし、この高揚感はなんだろう。新しい元号が発表されただけだってのにね。次の時代をよい時代にしようと、みんなが一体になるのを感じる。それは束の間のことであるとはわかっているのだけど、そういう機会があるのは悪くない。

翻って思い返してみるに、昭和から平成になるときはこんな感じではなかった。自分はまだ小学校に上がるか上がらないかって頃だったと思うが、たいへん陰惨な雰囲気だったように思う。TV はどのチャンネルにでもかならず、陛下の容態を伝えるテロップがついていた。それが何を意味するのかは正直あまりよくわかっていなかったが、祖父を病院に見舞うと、こういう数字をたえず表示する機械に繋がれているのは目にしていたし、要するに「死が近づいているのだな」というのは嫌でも分かった。

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それはあたかも、一人の老人が置いて死にゆくのを、皆が固唾をのんで見つめているようだった。助かってほしいと願う人間、いつまで持つかなと思う人間と、さっさと終わらないかなどと考える人間、さまざまだったろうと思う。

昭和天皇が崩御されたのは、正月明けだったと記憶している(あえて古いことを調べず、記憶に頼って書いているから、間違っているかもしれない)。というのも、町内会の凧揚げ大会が中止になったからだ。当時住んでいた大阪で、凧を存分に挙げられる場所は少ない。なので、普段は入れない中学校の校庭を貸し切って凧を揚げられるのはちょっとした楽しみだったが……あと、幼稚園で女性の先生が泣いていたのを思い出す。自分は泣きはしなかったが、なんとなく悲しい思いをしたのは印象強く残っている。

だから、今回、今上陛下が譲位をご決断されたのは大変よいことだったと感じる。慶弔をわけることで、純粋に新しい時代の到来を喜ぶことができる。

一方で、改元詐欺なるものが多発していると聞いて「なるほど」とも思った。前回の改元でどうだったかはあまり覚えていないが、そういうことが話題になった記憶はない。もしあれば、世論が許さなかったろう(犯罪すらも自粛ムードだった!)。今回はそこら辺が緩いので、悪い人たちが跋扈しているというわけだ。何ごともいい面、悪い面があるものだと感じる。

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まぁ、それはともかく――自分のようなものが宸襟を察するのは憚れるが、今回の譲位・改元は前回の轍を踏みたくないというお心から出たものだろうと思う。

にもかかわらず、Twitter では新しい元号を早く発表しないこと、それによってシステムのアップデートが進まないことを批判する声が多く聞かれた。Twitter を使う人は IT エンジニアが多いし、自分もそういう系統の人を多くフォローしているから仕方ないところもあるが、目に余るポジショントークだと思った。

そもそも、生身の人間1人の生死で左右されるシステムなんてものは、設計そのものが誤っている。今上陛下は健康に恵まれ、平成という元号は結果的に30年以上続いた。しかし、30年間も続くなんていう保証はどこにもありはしなかった。改元はいつ起こるかわからないということは容易に想定できるのに、これまで手を打たずにいたのはどういうことか……まぁ、これはエンジニアよりもマネージャー、経営者に責任があると思うが。

そもそも、元号というのはわりと緩い制度だ。古い時代、新しい元号が制定され、それが津々浦々にまでいきわたるには相当の時間がかかったろう。なので、かつては即日改元ではなく、踰年改元(年をまたいで改元すること)、踰月改元が一般的だった。そう思えば、「平成31年」が2019年いっぱいまで使われたからといってどうだというのだろう? 5月1日の改元までに、なにがなんでもシステムの改修を間に合わさなければならないという強迫観念はどこからきたのだろう?

かつては元号が決まり、それに合わせてゆるゆると社会が変わっていったのに、今では社会が元号の決定を急いている。そういう逆転現象に自分は強い違和感を感じたし、それを強いる社会やシステムの傲慢さも感じた。なぜ IT システムの都合で元号が左右されなければならない? 互いに譲歩するのはありだと思うが、もともとあまりよくない設計にしておいて一方的な主張だなぁ、とちょっと思っていた。

一方で、今回の改元で踰年が十分に議論されなかったのも不思議に思う。そっちの方が伝統(?)に即しているし、「元号を公表して皇太子さまは即位するが、新元号を用いるのは年明けから」という運用の方がなにかと都合がよかったのではないだろうか。そこはエンジニアたちの言い分ももっともだと思う。今回はあまり例のないことで、譲位の是非、実際のプロセス等、論じるべきポイントが多かったせいもあり、伝統と調和したより合理的な在り方を深められなかった。そういった点は、次回につなげないといけないなと感じる。

あと、話のついでにもう一つ言うならば、なぜ新しい元号をわざわざ国書からとったのだろうか。それ自体に反対はしないのだけど、いまさら漢籍からではダメだというのがわからない。どうせ万葉集だって漢籍の影響を受けているのに、頑なに国書にこだわるのはなぜだろう。なんなら、「直接は国書からとったけど、この漢籍にも由来している」みたいな玉虫色的表現でもよかったと思う。あえてそうしなかった――博覧強記な選者のこと、それぐらいは知っていたはずだ――ところに国粋的な流れを少し感じて、自分はゆるく安倍首相を支持している側だけど、ちょっと不安を覚えた。

そもそも、日本が独自に元号を用いているのは、中華文化の影響下にありつつも、その支配は受けていないという矜持からだと自分は思っている(かつてはベトナムなどがそうであり、朝鮮はそうではなかった)。先進的な文化は取り入れるが、支配はけっして受けない。だから、「元号が漢籍由来なのは恥ずかしい」などという考えにはくみしない。むしろ、独自の文化を保持しつつ、中華文明にも造詣が深い――しかも、ちゃんと消化・昇華している――だなんて、誇れることじゃないか。「令和」という新しい元号に親しみを感じるのも、その点で実に日本らしい元号だと思うからなのだけど、そこへ逆に中国文明との断絶を誇示しようとする勢力がいることに危惧を覚える。

穿った見方をすれば、これは日本の現状を反映しての動きかもしれない。今の日本は軍事的な自立を米国に奪われた状態だが、それを元号が漢籍に由来していること・縛られていることに投影し、その脱却を志向している……そうとれなくもない。元号を国書からとるのは、自立を志向していることの現れというわけだ。まぁ、いずれはそうなることに賛成だし、そのためには憲法9条も変えていかなければならないだろうけど、元号はもっとそういう「キナくさい」話とは完全に切り離して、みんなで「いいねー(#^.^#)」といえるものにしておけばいいんじゃないかと感じた。

ともあれ、新しい時代が始まる。平成という時代は昭和の残滓を拭うので精いっぱいで、なかなか上向いた話がなかったが、次の時代は今の子どもたちに笑われないような、みんなで「前の時代よりよくなったね」と言い合えるような時代にしたいなと個人的に思っている。