だるろぐ

明日できることは、今日しない。

日記:『日本その日その日』『人類史のなかの定住革命』

日本その日その日 (講談社学術文庫)

日本その日その日 (講談社学術文庫)

エドワード・S・モースの『日本その日その日』を読了。

モースは言わずと知れた「大森貝塚」の発見者で、いわゆる明治期の「お雇い外国人」の一人だったようだ。ちなみに、ミドルネームの S は「シルヴェスター」なのだそうな。かっこいいな、エドワード。見直したぜ。

モース先生は大変な親日家で、この本のほとんどは日本への賛辞で埋め尽くされている。やれ親切だ、やれ清潔だ、やれ礼儀正しい……褒められるのはうれしいことだけど、僕たちはそれらの美徳のうち、どれほど受け継いでいるのだろう。かなり不安になる。

ここに、毎年の予算の殆ど三分の一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、露西亜は教育には一パーセントの半分しか出していない。

この美徳は、社会保障費、とくに医療にかかる負担によって失われつつある。もはや次世代の日本に科学・文化面での飛躍を望むのは難しいが、それでも人々は手にした「権利」を手放そうとはしない。

私はこの学校で初めて、貴族の子供達でさえも、最も簡単な、そしてあたり前の服装をするのだということを知った。ここの生徒達は、質素な服装が断じて制服ではないのに拘らず、小学から中等学校に至る迄、普通の学校の生徒にくらべて、すこしも上等なみなりをしていない。階級の如何に関係なく学校の生徒の服装が一様に質素であることに、徐々に注意を惹かれつつあった私は、この華族学校に来て、疑問が氷解した。簡単な服装の制度を院長の立花子爵に質問すると、彼は日本には以前から富んだ家庭の人々が、通学する時の子供達に、貧しい子供達が自分の衣服を恥ずかしく思わぬように、質素な服装をさせる習慣があると答えた。その後同じ質問を偉大なる商業都市大阪で発したが、同じ返事を受けた。

しかし、最近の日本の小学校にはヴェルサーチの標準服が存在するという。まぁ、それは別によいが、その小学校にいれるために一部の保護者が弄ぶ小細工を見聞きするとげんなりとしてしまう。

美徳が失われる原因を文明や資本主義経済に求めるのは簡単だが、それは外的なものにすぎない。僕らは自分で自分の生き方を決める権利があり、気概さえあればそういう風潮に逆らって生きることもできるはずだ――という考えは夢見過ぎなのだろうか。

モース先生は褒めるだけでなく、悪いところはちゃんと手厳しく指摘する。

我が国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。

美徳が失われつつあるのに、それに代わる美徳を僕らは身に着けているだろうか? それはともかく、米国人の先生が欧州に対する対抗意識をちょっぴりだけのぞかせているのは面白かった。

あとは……スケッチが多いのが面白いかもね。「薩摩の反乱」などの時事問題にも触れているのも、歴史好きにはポイント高いかも(あまり期待しない方がいいが)。ちなみに、モース先生の鹿児島のイメージは最悪だったみたい。戦乱で荒れ果ててたし、コレラが猖獗を極めていたみたいだから致し方ないかも。

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

『日本その日その日』の次は、『人類史のなかの定住革命』を読んでいる。まだ1章しか読んでないけど、結構面白い。

定住ってどういうこと?――歴史の本は好きだけど、あまりこういうことは考えたことはなかったな。問われれば答えはたくさん出るわけで、1章で論じられていることも、一つ一つはそれほど目新しくはない。だからこれは「問いを立てること」「視座を提示すること」がえらい。

僕らは「農耕の結果として定住がはじまった」と思いがちだけど、「定住したからこそ農耕が定着した」と考えるのは理にかなっている。定住は農耕の必要条件だが、十分条件ではない。実際、"非農耕定住民"と呼ばれる人たちも存在する。かれらの多くは採集と漁撈に頼っているが、僕らのご先祖様も農耕をする前はそうやって暮らしていたのだろう、遊動のメリットをわざわざ捨てて。

  • 遊動によるメリット(→ 定住で必要になった解決)
    • 安全性・快適性の維持 → 家屋・城市の建設
      • 風雨や洪水、寒冷、酷暑を避けるため。
      • ゴミや排泄物の蓄積から逃れるため。  
    • 経済的側面 → インフラストラクチャーの構築
      • 食料、水、原材料を得るため。 → 水道、備蓄庫
      • 交易をするため。 → 道路、市場、共同施設
      • 協同狩猟のため。 → 農耕、もしくは近隣略奪・防衛のための軍隊の組織化
    • 社会的側面 → 法律・政治へのニーズ、分業と経済
      • キャンプ成員間の不和の解消。
      • 他の集団との緊張から逃れるため。
      • 儀礼、行事をおこなうため。
      • 情報の交換。
    • 生理的側面 → スポーツ・芸術の揺籃
      • 肉体的、心理的能力に適度の負荷をかける。  
    • 観念的側面 → 宗教・祭祀の発達
      • 死あるいは死体からの逃避。
      • 災いからの逃避。

軽く見ても、遊動から定住への切り替えが多くの新しいモノへ繋がったのがわかる。これらをまとめて文明(Civilization)と呼ぶ。これは私見だが、文化は遊動においても育まれうるが、文明は定住を必要とする(匈奴文化はありえるし、実際にあるけど、匈奴文明には違和感を感じる)。これまで文化と文明の違いがよくわかってなかった気がするけど、こうやって切ってみるとわかりやすいのではないだろうか。

定住化の過程は、人類の肉体的、心理的、社会的能力や行動様式のすべてを定住生活に向けて再編成した、革命的な出来事であったと評価しなければならない

で、この本が面白いなと思ったのは、この「定住革命」はまだ続いているのではないかと指摘している点だ。僕らは定住のために膨大なエネルギーを消費し、そのために巨大なインフラを構築して日々大量の物資を交易している。その枠組みは今も拡大の最中で、やがては地球の枠すら超えてしまう勢いだ。

正直、そういう発想は自分にはなかったので続きが楽しみ。