だるろぐ

明日できることは、今日しない。

『こころ』

こころ (ちくま文庫)

こころ (ちくま文庫)

明屋書店に寄ったはいいが、ほしいものがない。とはいえ何も買わずに帰るというのも癪だったので、たまには小説でも読むかと買って帰った。注釈は親切だけど、付属の解説などはさして面白くなかったので、よい子のみんなは青空文庫とかで買えば要らざる出費をせずに済む。とはいえ、個人的には紙の本の方が好きだ。残りの量を探りながらページを繰る感覚は残したいし、その気になればこの程度の金額(ちなみに400円ほど)をそういう“文化”に投資するのを惜しむべきではないと感じる。

本書の内容については、少し気の利いた人であれば誰でも知ってるだろうので割愛する。簡単にまとめれば、必殺の呪文「精神的に向上心のない者はばかだ」(SKB)で恋敵の親友を抹殺した術者が反動効果<カウンターエフェクト>で死ぬという話だ。呪文の元ネタは自殺した当の親友というなのだから、あまり救われない話と言える。

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実はこの本、中学生の頃だろうか、読んだことがある。中学二年生という生き物は、得てして太宰治やら志賀直哉やらを読み漁り、それでいっぱしの人間になったような気になるものだ。ましてや、『猫』や『坊ちゃん』のようなライトノベルを読んだだけで夏目漱石を語るわけにはいくまい。おそらくそんなことを考えながら『こころ』を手に取ったのだろう。

しかし、すべては読み切らなかった。第一部には読み覚えがあるので、きっとそこまでは読んだのだろう。しかし、思わせぶりな書きぶりが延々と続くことに辟易としたのだろう、その先は開拓されないままになっていた。

それから20年ほど経ってまた『こころ』を手に取ってみたのだが、妙な引力のある話だと思った。かつては思わせぶりとしか思えなかった迂遠なやりとりに、なぜか引き込まれてしまう。自分は一部と二部をペロッと読んだあと、少し時間を空けて三部を一気に読んだが、それはけっして飽きたからというのではなく、細切れの時間に読書して途中で本を伏せる羽目になるのを恐れたからだ。いつものように酒を入れながら読む気になれなかったので、素面の機会をうかがっていたというのもある。

自分は作中の人物のように、「金」で自分を見失ったり、「恋」で道を踏み外した経験はない。月に何千万円を扱いながら文字通り“食べる物にもこと欠くあり様”を経験したけど、手を付けようとは一瞬も思わなかった。「恋」に関しては極度に憶病――これは自分に金銭や社会的地位がなく、自分では自分に満足していたものの、他人に積極的にお勧めできる“優良物件”ではないという自覚があったからだが――で、幸いなことに修羅場を経験せずに済んだ。誰かを独占したいと思ったことがないわけではないが、他人を押しのけてまで行動するほどの激情をもつに至ったことはない。

ただ、劇的な場面に遭ってなにもできなかった苦い思い出だけはある。

大学に進んで書生のような身分を謳歌するものは誰しも、自分は自分なりに鍛錬や修練を積んでおり、いざ事が起こればそれなりに働けるものだと妄想するのではないだろうか。矢弾飛び交う戦場に放り込まれても先頭に立って戦うさま、磨き上げた知性が圧倒的な不合理をも鋭く切り裂くさま、ドロドロとしたオトナの権力闘争の中でも独り清廉な人格を保つさまなどを妄想するのではないだろうか(異世界ハーレムで俺Tueee!を妄想するのでも一向にかまわないよ)。自分がまだ何もなさざる人間なのは、自らが利器たるを証明するための機会がないだけ。いざ盤根錯節に遭えば、見事両断してくれようと。

そこまで大袈裟ではなくても、事故を目の当たりにすれば義侠心や義務感が内から湧き上がってきて、適切な行動ができるぐらいには考えているだろう。気が動転して右往左往するだけの愚民ではないぞ、と。

具体的になにがあったかを書くのは、今はよそうと思う。自分にも“先生”のような自由が訪れたら、それを長い長い手紙にしたためてもよいかもしれない。まぁ、出す相手がいるかどうかは別として。

ともあれ、そんなわけで“K”が SKB に倒れた心持ちに関しては、少しだけ同感がある。

中学の頃では、なぜ彼が死を選んだか(選ばなければならなかったのか)までは理解も想像もしえなかっただろう。今でも「それは死ぬほどのことか?」と思わんでもない。しかし、“倫理”と生きていたと自負する人間にとって、なにかでそれをスパっと折られるのはなににも代えがたい苦痛なのだ。それまでは下らないと歯牙にもかけなかったことにやられたのならばなおのことだ。自分だって死にこそしなかったが、折れたものを継ぐのに大層時間を要したように思う。

けれども、なにも気づかずに歳を食ってしまうことを思えば、それは大変幸せなことなのだ。またいつかバッサリやられるのではないかという怖れと付き合いながらも、それがない生き方を思えばずっとマシだと思える。自分が傷つくのは癒せば済むが、誰かを犠牲にしてしまえば、それは一生取り返しのつかないのだから。無論、自分の死をもってしてでも。後払いが効かないのであれば、前払いしてしまうにしくはないだろう。

最後に、もう一つ感じたのは“明治”という時代性に関してだった。“明治”が終わることの重さというのは、なんとなく羨ましく感じる。

“昭和”に殉ずる者などいないのは、それが長すぎるエピローグをもった悲劇だからだ。あの時代では、ドラマで役が与えられた人間と、終幕で退場しそこなった人間と、劇の筋書きにケチを付けながら延々とその場に居座る観客にわかれていた。殉ずるなら敗戦のタイミングであって、先帝の崩御のときではない。

それに比べ、“明治”のあの一体感! 『こころ』では“明治”と終わりを共にする人たちが描かれているが(主題ではなかろうが)、それを眺めながら“平成”はどうだったのだろうとか、これから先、自分たちは時代を一体に感じる機会を得られるのだろうかなどと思った。それが幸せなことなのかどうかは知らんが、“自由”の代わりに失った時代性というものに少し羨ましさを感じる。どうせ押しつぶされるであろうのに過大な盤根錯節を思うのは、まだ書生気分が抜けていないということなのか。

追伸

面白かったけれど、やっぱり小説は嫌いなので、当分は読まないようにする。