だるろぐ

明日できることは、今日しない。

『捜神記』

捜神記 (平凡社ライブラリー)

捜神記 (平凡社ライブラリー)

本当は葛洪というひとの『神仙伝』が読みたかったのだけれど、松山のジュンク堂には置いてなかったので、代わりにこの本を買った。ちなみに『神仙伝』は Amazon に1冊あるみたいなので、さっそくゲットした。今度読むことにしようと思う。

『捜神記』は中国の東晋の干宝が著した志怪小説集。志怪小説は六朝時代(魏晋南北朝時代)に書かれたオカルト小説みたいなもんで、魏の曹丕なんかも『列異伝』っていうのを書いていたらしい。まぁ、曹丕は皇帝のくせに『典論』で「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」なんてちょっとイタいことを書いちゃう人なので、オカルト小説ぐらいものしていてもあまり違和感はない。

内容は短い説話・怪奇話なんかで構成されていて、一編一編はとても短い。一部は青空文庫に収められているので、その中から適当に一つ引用すると……

秦(しん)の時代に、南方に落頭民(らくとうみん)という人種があった。その頭(かしら)がよく飛ぶのである。その人種の集落に祭りがあって、それを虫落(ちゅうらく)という。その虫落にちなんで、落頭民と呼ばれるようになったのである。

呉(ご)の将、朱桓(しゅかん)という将軍がひとりの下婢(かひ)を置いたが、その女は夜中に睡(ねむ)ると首がぬけ出して、あるいは狗竇(いぬくぐり)から、あるいは窓から出てゆく。その飛ぶときは耳をもって翼(つばさ)とするらしい。そばに寝ている者が怪しんで、夜中にその寝床を照らして視みると、ただその胴体があるばかりで首が無い。からだも常よりは少しく冷たい。そこで、その胴体に衾(よぎ)をきせて置くと、夜あけに首が舞い戻って来ても、衾にささえられて胴に戻ることが出来ないので、首は幾たびか地に堕おちて、その息づかいも苦しく忙せわしく、今にも死んでしまいそうに見えるので、あわてて衾を取りのけてやると、首はとどこおりなく元に戻った。

こういうことがほとんど毎夜くり返されるのであるが、昼のあいだは普通の人とちっとも変ることはなかった。それでも甚だ気味が悪いので、主人の将軍も捨て置かれず、ついに暇(ひま)を出すことになったが、だんだん聞いてみると、それは一種の天性で別に怪しい者ではないのであった。

このほかにも、南方へ出征の大将たちは、往々(おうおう)こういう不思議の女に出逢った経験があるそうで、ある人は試みに銅盤をその胴体にかぶせて置いたところ、首はいつまでも戻ることが出来ないで、その女は遂に死んだという。

岡本綺堂 中国怪奇小説集 捜神記(六朝)

たったこれだけ。なかには何が言いたいのか意味不明なのもあるのだけど、なんとなく当時の人の欲望、風俗、道徳、信仰が垣間見えてなかなか興味深い。今の視点からみるとちょっとバカらしい話ばかりなのだけど、当時の人は当時の人で、それなりのリクツをもっているんだな。

妖怪とは、つまり、精気が物に宿ったものなのである。精気が内側に乱れ動くと、憑かれたものはさまざまに外形を変える。このように、外形と精神、精気と姿態は、表裏の関係を持って動くのである。そして、木・火・土・金・水の五要素の運行する根本原則をわきまえ、貌・言・視・聴・思の五機能に通暁していれば、万物が勢いを増したり衰えたり、昇ったり降りたり、いかに様々な変化を見せようとも、それが吉兆であるか凶兆であるかは、一つ一つ分類して説明することができよう。

笑っちゃいけないぜ、今の人間だって株の上がり下がりをもっともらしい金融モデルや、現実のできごとに紐づけて説明したりしているが、本当のところはだれも仕組みなんてわかっちゃいないんだ。もっと科学が発展した未来から見れば、たぶん僕らの行動の多くは、今僕らが『神仙伝』を読むときに感じる滑稽さと大した変わりなく映るのではないかな。

だから、『神仙伝』のような志怪小説は楽しんで読むのはもちろん、たぶん当時の人にとって、僕らが思う以上に、おそらく真面目なものだったのではないかとらえるのが大事なんじゃないかと思う。その時代の人の目線で、その時代を見て見たければね。

たとえば、中華世界には、天の動きが地に反映されるという独特の“民主主義”と“革命”の理論があった。王や皇帝は天から命を受け、政権を担当する。民はこれに逆らうことはできない。しかし、だからといって皇帝は好き勝手に民を使役できるわけではない。民の怨嗟の声が地に満ちれば、それはやがて天に届き、新しい天命が下る。政権の交代が正当化され、新しい王朝がたつ。「蒼天已死 黄天當立」ってやつやね。西洋でこうした政治理論(しかし、もっと理性的な形で!)が誕生するのは、ルネサンス以降、教会の影響力が衰えてからの話だ。

とはいえ、革命のときであればいざ知らず、平時においては権力は絶対的なものだ。身分が下のものが、上の者の過ちを指摘するのは、ときに死を招く。たとえば諫言の士といえば、唐の太宗の時代に活躍した魏徴(西遊記にも出てくるよね)が思い起こされる。彼は太宗にたいそう信頼されており(ここ、ちょっとしたダジャレやで!)、特別に直諫が許されていた。彼もこれに応えて生前有用な諫言を何百も行ったが、そんな彼ですら死後に太宗の誤解を招き、墓を破壊されている(ここ、ちょっとしたダジャレやで!)。まぁ、この墓はまたあとで立て直されてるんだけど、専制君主に対して諫言を行うのがいかに危険かというのが分かろうものだ。

なので、この時代の人たちは直諫ではなく、暗諫や風諫を行った。たとえば、こんな変な魔物が出てますよ、これは古来から政治がよくないからだと言い伝えられています、いえ、私としては王はいい政治をなさってるとは思うんですけど、念のため、政治を見直した方がいいんじゃないですか、といった具合にね。もちろん、王に取り入るために指が一本多い鶏を献上する話なんかもあるんだけど(笑

ともかく、そういった世界をうまく動かしていくための方便として、天の法則を推し量るための、いわば天意の判例集としてこういう志怪小説は役立つんだ。

また、そんなたいそうな話ではなくとも、昔の人々はなるべく理論的にものを考えて、それでも解決ができないことに関しては怪異に関するリクツをうまく使い、その場を乗り切っていた。うだうだ悩むよりも、とりあえず何らかの形でリクツをつけて納得し、他の問題に取り組んだ方が効率的だしね。

あと、先ほど引用した編でもわかるとおもうけれど、三国志や東晋の有名人が割りと出てくるので(朱桓ってシブくていいよね!)、そっち系の歴史が好きな人はちょっと読んでみると面白いかもね。