文化について
「文化」というとき、伝統社会における文化と近代社会における文化では、意味に本質的な違いがある。
伝統的社会
社会的に伝えられる行動様式、技術、信念、制度、さらに一つの社会ないしコミュニティを特徴づけるような人間の働きと思想によって生み出されたすべてのものを含めて、一つの総体としてとらえたもの
マサイ族の若者が「文化」というとき(そういった語彙があるのかどうかは知らない)、同年代の若者のことを想起し、伝統的な制度のもとで、社会がどのように組織され、自然資源がどのように利用されているかを思い致す。
近代社会
知的ならびに芸術的な活動
北ヨーロッパの人々が「文化」というときは必ず、芸術、文学、音楽、劇場を意味している。
贈与および交換との関係
伝統的社会における「文化」は、(相互)贈与のルールにマッピングできる。「文化」とは贈与を介してやり取りされる“何か”が外に漏れ出ないように、外から奪われないようにする枠のようなものであり、その中にいる限り、その恩恵を受ける(借りる)ことができる。
近代社会における「文化」は、カネさえあればだれでも買うことのできる無差別・平等的な商品で、いわばファッションに過ぎない。伝統的社会における「文化」は「ルール」(作法と呼ぼうか?)とワンセットになっているが、近代社会における「文化」はそこからは自由だ。
かつて“no life, no music”というコピーがあったが、近代社会における“music”は別になくて困るようなもので決してはない。つまり、必要なものではない。
もちろん、鼻歌や替え歌、心がたかぶってつい口を出る歌は止められないのは確か。けれど、それは(他者が需要してやまないという意味で)必要なものではなく、(自分にとって抑えがたく必要であるという意味で)必然のもの。これは伝統的社会における“music”であって、カネに代えられないし、カネに代えてもならない。カネに代えることができたとしても、本来付随するべき「作法」までを消費者に強要することはできないので、必然的に低俗な方向へ再解釈されていくことを拒否できない。
ただ、二者に優劣があるといいたいわけではない。「文化」には二つのあり方があり――それは贈与と交換の違いに根差している――、どちらもそれなりの存在理由があり、相互に比較したり、否定しあっても仕方のないものだと思う。――が、限りある命のなかでどちらを身に着けるべきかを考えると、前者に多少の優先度があっていいと感じる。
サブカルチャー、および身に着ける「べき」文化について
このブログで「文化」について言及する場合は、前者の意味で用いることが多いと思う。「芸術、文学、音楽、劇場」などというものは、それをたしなむ人々が“サブカルチャー”と(ときに蔑みを込めて)呼ぶアニメや漫画とそれほど大差はない。
なんというかね、(生来的な)貴族でもない・ただの一般的な市民が、ファッションとして高尚な文化を気取っても仕方がないと思うんですよ。こんなにマイナーな歌を知ってる、古典を知ってる、演劇を観てる、オシャレを知っている。それって、アニソンが歌える、ガンダムのセリフを暗唱してる、『みなみけ』を10回観た、コスプレかわいいってのとどれだけ質的な違いがあるのだろう。
むしろ、僕らのような市民が身に着ける「べき」文化というのは、貴族的な精神――俗にいえばノブレス・オブリージュのようなもの、ちゃんといえばハリントンの“自然的貴族”のようなもの――であり、社会との上質な関わり方なのではないだろうか。
そして、そういうものは二代・三代と積み上げていって初めて芽が出るものだと思う。「京都になじむには三代必要」「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」なんて言われたりするけど、文化とは本来そういうものだと思う。京都に住むことや、江戸っ子であるということは、「芸術、文学、音楽、劇場」以上に肉々しく文化的なことだ。
平たく言えば、家族や街との関わりあい方として身に着けるべき文化と、個人のファッションとして身に着けるべき文化があるということなのかな。で、“高尚な文化”といえど、買えるものは個人のファッションとしての文化に過ぎないということ。
そうそう、伝統的・近代的「文化」における大きな違いは、そのスケールにもあると思う。伝統的文化は数世代にわたって持続可能でなければならないが、近代的文化においてはそこまでのスケールが求められていない。近代的文化というのは、あくまでも単位が「個人」なのであり、だから自由かつ(先天的な意味で)無差別でありうる*1。
- 作者: 宇沢弘文
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追記
もっとはやく「伝」「統」的という言葉の意味に注意しておけばよかった。
ちなみに英語の conventional の語源はラテン語で con(ともに)+venire(くる)で、やはり集団的・持続的意味がある。venire は「veni vidi vici(見た、来た、勝った。)」の故事成語でも有名だね。
*1:逆にいえば、贈与関係は差別を生む。これは重要な視点だと思うから、また改めて。