アテにするということ。
「交換」世界は、強制力の伴った信頼関係でつながっている。それを僕は「アテ」と呼ぶことにしている(「私は頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌いなんだ」 - だるろぐ)。一方、「贈与」世界は「タヨリ」でつながっている。小さな世界のルールである「タヨリ」から、大きな世界のルールである「アテ」への脱皮。それが「近代」だと思うのだけど、でも、「タヨリ」は完全に排除されたわけではない。「アテ」は確かに「タヨリ」を断ち切る部分をもつけれど、何かの拍子に「アテ」が失われたとき、人はその基礎として横たわっていた「タヨリ」を再び見出す。たとえば、大震災の折に「絆」が見直されるように*1。
そんなことを何年も考えていたのだけど、少し整理をしてみたいので、昔のツイートをサルベージして検討してみることにした。
関係を計算可能にすると、「投資」が可能になる
未来を計画に取り込むには、"アテに出来る(計算できる)"ことが大事。→ 量化、規格化、目標・ノルマ、契約の履行、信用
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 3月 9, 2010
「タヨリ」は「アテ」にならない。
アテにできる人が多ければ多いほど、経済の連鎖の網は強く、広くなる。
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 2月 15, 2012
企業(Enterprise)は、周りの経済環境をアテにした冒険だ。そして、みながみな、互いのアテ通りに動けば、その冒険は必ず成功する。ただし、アテが断ち切れた時は、言わば「負のアテ」が発生し、冒険のツケが回収されていく。
みんな手形の裏書ってしたことある? 手形の裏には、それを手にした人の名前が書きこまれていく。もし万が一手形が決済されなければ(不渡り)、裏に書いた名前の順に、支払い義務が発生するんだよ。信用が収縮して、ツケが逆回収されるのを体感できる。
経済を需給の円環(≒市場)の相互作用的な蓄積ととらえる。円環をつなぐのは、緩やかな"商人の信頼"(他人の行動をアテにする感覚)で、好景気とは信頼が加速している状態、不景気はその逆。"商人の信頼"はメタ規範ゲーム的な仕組み
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 11月 5, 2009
「"商人の信頼"(=「アテ」)はメタ規範ゲーム的な仕組み」というのはいろいろ言葉がおかしいので、今はスルーしてほしい。でも、いつか説明することになると思う。
交換社会=契約社会
結局、契約というものは、お互いに「アテにしていいよ」という合意なのだな
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 6月 1, 2012
交換社会は、契約社会と言い換えることもできる。
契約こそが、世界を広くした!
「タヨリ」になるのはいい人、「アテ」にできるのは信用できる人
サンデル教授なう。なんとなく思うのだけど、人格に対する評価は、その人が"アテにできるか"のような気がする。ちゃんとスジが通っていて、期待された行動がちゃんといつもアウトプットされるというか。それは別に定言的でも功利的でもいい気がする。
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 6月 8, 2010
「タヨリ」はなる、「アテ」はできる。言葉ってホント面白い。
贈与世界(古代、田舎、肉親・友人関係)においては、「タヨリ」になるかどうかが人格の尺度だ。逆に、交換世界では「アテ」にできるか、つまり約束を・期日通りに・期待した品質で・確実に果たすことができるか、が人格の尺度だ。
この二つをごっちゃにするのは、あまりよくない。友人関係に契約を期待してはダメだし(約束が破られても罰を与えてはいけない)、取引関係に義理人情を持ち込むと、関係から抜け出せなくなってあとで後悔する。
社会的プレゼンスと責任
みんな安定的な価格をアテにしているから、その期待が価格維持圧力になっている。けれど、背後では需給による自然価格の変動があって、ギャップがある閾値を超えると一気に価格は変わるイメージ。
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 7月 27, 2010
定期的というか不断なサイクル、それをアテにしてさらにビジネスをつみ足していくさまが経済の本質だと思うから、なにもPC業界だけのことでもない。でっかくなると、そういうサイクルを維持すべきという責任を持つと周りに期待されるのは面倒くさいことだろうなと思う
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 2月 6, 2011
何のことを指して言っているのか忘れたが、交換社会においては「事業規模が大きい=影響が大きい」ので、責任もそれに応じて増大すると考えられている。
かつてはこれを贈与社会の道徳を交換社会にあてはめた、間違ったモノの見方ではないかと疑っていたのだけど、「アテ」の文脈で考えればそうでもないと思った。デカい企業は、その一挙手一投足がそれぞれ大きな影響を与えるので、「アテ」の倫理でその行動を縛ろうと考えることにも一理ある。逆にいえば、その縛りがない分、無名な小企業=胡散臭いと思われるのも、ある程度仕方のないところだ。自分たちのコントロールが及ばないのだから。
公正を求めてるんじゃなくて、自分にとってアテにできるように相手が行動するよう要求してると考えれば、規範的な意味を排除しつつ、結果的にもあまり変わってないとおもた
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 2月 16, 2011
あんまり意味が分からないが、大企業へのチェックが激しいのは、別に正義感がゆえではない、ということだと思う。
「経済学を学ぶと利己的になる」ってホント?
「経済学を学ぶと利己的になる」 むしろ他人をアテにしな合理性を身につける気がする
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 2月 16, 2011
個人的にはそんなことはないと思う。ただ、経済学は「交換学」であって「贈与学」ではないので*2、交換の倫理をベースにものを考えるところはある。「贈与学」に近いのは、むしろ法学のほうだろう。贈与倫理の切り捨てが、「利己的」ととられることは十分ありうる。
交換学は、無歴史的・普遍的・一般的な「である」を記述する。だから、社会科学と呼ばれる。
贈与学は、歴史的・時空に関して特殊的な「すべき」を記述する。だから、交換学とは一部において対立する。
けれど忘れてはならないのは、特殊なしに一般はありえない、ということ。経済学ではよく「冷めた頭脳と温かい心」というけれど、後者は忘れられやすいし、仮に忘れていなくても前者に比重を置きすぎていると批判されることが多いのは自覚しないといけない。
合理的判断には、相手に期待したり、アテにする部分がまったくない
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 2月 16, 2011
何が言いたいのかわからないが、おそらく「経済合理性はアテのリスクを十分織り込んでいなかったり、タヨリの部分を軽視しているので、真の合理性とは言えない」と言いたかったのだと思う*3。
新しいアテが古いアテを蹂躙する
ショッピングモールとか、あるいは本屋さんみたいなリアル店舗が提供しているのは「予感」なのだと思う。たくさんの品物がそこにあって、そこにいけば「何かいいもの」があるという予感。同じたくさんの品物であっても、「便利」を目的にしたその途端、その店は密林に蹂躙される
— medtoolzさん (@medtoolz) 5月 23, 2012
わしの言葉では「アテ」だな。「予感」っていい言葉だ
— だるやなぎさん (@daruyanagi) 5月 23, 2012
古いものは、常に情緒的。新しいアテが登場すると、古いアテはタヨリの衣をかぶって生きながらえようとするようだ。
でも、それ自体はキライじゃない。我慢がならないのは、それがいつのまにか「生き残るべき」と主張されることだ。アカの他人に向かって「べき」と言えることは、実際のところ、世の中にそんなに多くないはずでござる。