だるろぐ

明日できることは、今日しない。

方法論的性悪説

それを倫理的に肯定したり、思想的根拠として支持するかどうかは別として、社会的事象を分析する立場・手段として、便宜的にある方法を採用することがある。たとえば、個人主義(対立語は[倫理・政治的意味とは異なる]全体主義や歴史主義となるのかな)を採用する場合、これを方法論的個人主義方法論的個人主義 - Wikipedia)と呼ぶ。

とすれば、「人の善性を条件としない」つまり「(仮として)人間の本性を悪と前提して考える」議論を行う場合、それは方法論的性悪説と呼ばれていいと思う。

方法論的性悪説は人の本性が悪だと仮定しているが、善ではないだとか、善であってはならないだとかをいうことを主張しているわけではない。善であることにこしたことはないが、それはすべてのひとに期待すべきではないという考えの下に、あくまでも方法論として、人間の悪性を仮定しているだけだ。人間の本質が善ではないという、最悪のパターンを想定して議論を組み立てているに過ぎない。

この方法は、政治、経済、工学などの分野で非常に役に立つ――というか、前提とされるべき考え方だと思うのだけれど、ある種の人はそれを理解しないだけでなく、性善説でない――人間は善でるべきである、善に向かうべきであるという主張に反する――ことを理由に攻撃しさえする。

世に行われている性悪説のほとんどは、実は“方法論的”性悪説。なので、それを倫理的・思想的観点から攻撃してもムダだと思うのだけど、性善主義的正義感に凝り固まった一部の人たちにはそれが理解できないようだ。

(方法論的)性悪説は、悪でないものを善と考える。だから、善は悪よりも前提として制約が厳しい。だから、より緩い前提である悪を議論の出発とする。この意味で、善は目標でもある。

性善説は、善でないものを悪だと考える。善は現実としてすでにあり、守るべき対象である。なので、悪は善を守るために禁止したり、逃避したり、排除すべき対象となる。

ちなみに、“方法論的”性善説というものもありうるかもしれない。人間は本来善であるはずなのに、この世ではそれがなんらかの理由で失われている。その欠落の原因が俗世にあるなら千年王国を夢見る宗教に至るだろうし、人間社会にあるならそれを排した自然主義(ナチュラリズム)に至るだろうし、法律で悪質な行為のブラックリストを作って該当すれば罰を加えたり、場合によっては孟子的な礼楽主義によって徳性を磨くべきだという主張になるのだろう。