「貨幣とは何かを問われた学徒は」
貨幣とは何かを問われた学徒は、月並みの答えをする以外に手はない。貨幣はその機能によって定義される――貨幣として使用されるものが貨幣であると。
貨幣とは、貨幣が行うところのものである。そして貨幣の機能には三つある。――計算手段(ヴィクセルの言葉で言えば「価値の尺度」)、支払い手段、価値蓄蔵。
Hicks, Critical Essay in Monetary Theory, Oxford, 1967, chap. 1
計算手段
貨幣は貸し借り(債務)を計算可能にし、贈与経済から引きはがす。
贈与経済では、貸し借りを計算するのはご法度だし、ましてや貨幣などというグロテスクな、計量化された、むき出しの贈り物を贈るのは不躾なことだ*1。相互贈与において、贈り物にかならず返礼とセットになっている。つまり、贈り物は債務と等価だと言える。けれど、贈り物をするときは上辺だけでも返礼を期待しないふりをするのが、相互贈与のルールでもある。債務がむき出しになった贈り物は、返礼の義務を想起させるので忌避される*2。
一方、交換経済では、そのような贈与経済の虚飾性が脱ぎ捨てられている。これまであくまでも"目的"とされていた贈与が、見返りを得るための"手段"に転化する。何が贈与されたか(内容、質)ではなく、いくつ贈与されたか(数字、量)が問題になる。
支払い手段
ヒトは、貨幣なしに交換できない。交換経済が出現するまで、ヒトは互いに・常に"贈与"しあう(相互贈与、互恵関係)ことで、"交換"を代替していた。貨幣はその関係を停止して、交換の際にはかならず自分を媒介させるようにする。
隣近所ならば味噌と醤油の交換*3が可能でも、スーパーでそれはできない。これは「欲望の二重の一致」問題の話ではない。かりにその日の晩、八百屋のおっさんの晩酌のアテが豆腐で、たまたま豆腐屋のおっさんの晩飯が大根のおでんだとしても、豆腐で大根を、大根で豆腐を買うことはできない。豆腐屋のおっさんは一度貨幣で豆腐を八百屋のおっさんに売り、その金で大根を買う――つまり、一度貨幣を媒介させる必要がある。
貨幣は支払い手段をもつのではなく、交換社会における媒介者の役割を強いられている。支払いを媒介できるモノが貨幣なのではなく、支払いを媒介させられているモノが貨幣なのだ。だから、貨幣は金でも牛でも紙でも電子データでもよく、そのどれであるわけでもない。そのときたまたま交換を媒介しているのが貨幣だ。ハイパーインフレになれば、飴玉やガムが少額貨幣に早変わりする。
価値貯蔵
贈与経済では、返礼の遅れが咎められる。最悪の場合、贈与コミュニティへの参加権を失うことにもなりかねない。贈与経済において、ケチは常に仲間外れにされる*4。しかし一度取引が贈与経済から引きはがされれば、その制限は取り払われてしまう。取引の時間的自由度は飛躍的に向上し、蓄積も可能になる。ケチは倹約という名の美徳となり、資本への扉が開かれる。
ただし、それは"貨幣愛"という魔物も同時に生むのだけれど。退蔵されればされるほど、本来貨幣が促進すべき取引を妨げ、それが故に、需要と供給の法則の埒外で、貨幣の本源的価値を減価せしめる。