だるろぐ

明日できることは、今日しない。

純粋贈与について

「経済」は、「交換」で成り立っている。

「交換」は、「相互贈与」を基礎としている。「相互贈与」が「交換」に発展する過程については、いつか説明する時が来ると思う。ただ、アカの他人同士が出会えば即「交換」に至る、という経済学の前提はおかしいとだけ、ここでは指摘しておく。「交換」が行われるには、それが常態的に行われうる素地が、まずそこになければならない。その素地は、長期間にわたって築かれた「相互贈与」関係によって醸成される*1

さて、「相互贈与」とは、互いに「贈与」することである。ならば、それを手繰っていけば、最後に「最初の贈与」へ行き着くはずだ。

「贈与」は金銭と商品の交換に限らず、行為からなにか霊的な絆に関するモノに至るまで、あらゆるやり取りを含んでいると考えてもらいたい。たとえば、あいさつのやり取りでさえ「相互贈与」であるととらえることができる。ならば、そこには「最初のあいさつ」があってしかるべきだろう*2。これで「最初の贈与」についてはイメージができただろうか。

「最初の贈与」は、何かのお返しだとか、義理を果たすだとか、慣例だとか、そういうモノとはまったく関係がない。なぜならば、それがまったくの「最初」であるがゆえに。つまり、「最初の贈与」は自分をその行為へ駆り立てる強制*3なしに、純粋に・自発的に「あげたい」という気持ちの発露、つまり「純粋贈与」であるはずだ。

"世界の豊かさ"のおおもとは、この「純粋贈与」の蓄積にある、と私は考えている。しかし、この「純粋贈与」は一時のもので、ただ費消されてしまえば、その生命を終えてしまう。なので、「純粋贈与」を保存し、増やしていくためには、世界を豊かな方向へ駆動させるには、もう一つのロジックが必要になる。

*1:欧米人はビジネスの前に握手をするが、それは互いに武器を持っていないことを表明することから始まったという。現代ではあまり想像ができないが、「交換」には、つねにそれを裏切って「略取」するという選択が背後にあることを忘れてはならない

*2:逆をたどれば、あいさつが物のやり取りへ、物のやり取りが負債や証書のやりとりへ、それが貨幣のやり取りへという道筋が明らかになる

*3:多くの場合は、恩義や負債、制裁付きの慣習・ルール