だるろぐ

明日できることは、今日しない。

政治家を好き嫌いで選ぶことの是非について

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政治家が自分の好悪にしたがって恣意的に政策を決定するとする。たとえば、"「きのこの山」はカタチがけしからんから販売禁止にする"とか。それは許せることだろうか。たぶん、多くの人が「許せない」と答えると思う。

逆に、有権者が自分の好悪にしたがって恣意的に政治家を選ぶとする。たとえば、「あいつの喋り方が気にくわない」とか。それは許せることだろうか。たぶん、「許せない」と答える人は、さっきの設問の時よりも多くないのではないかな。

「名前を知っているから投票した」だの
「同じ町内出身の人だから応援する」だの
「初めての女性首相になるかもしれない人だから期待する」だの
「決断力、包容力ともに備えていて、しかも律儀で好感が持てる」だの
「まだまだ安定性には欠けるものの、若さと将来性に賭ける」だの

そういうのは一見、投票の「自由」として許されるように思えるけれど、実はどれも許してはならない。有権者が自分の好悪だの利害だので判断していては、"「きのこの山」はカタチがけしからんから販売禁止にする"という政治家となんらかわりはなく、彼らを批判する権利を失ってしまう。

有権者だって、自分の利益を一度脇において、自分の理性で政治家の掲げる政策を吟味しなくてはならない。ただ、政策が理性のメガネにかなうかどうかだけが重要だ*1。それが、ルソーのいう「一般意志」なのじゃないのかな。最近は胡散臭い「2.0」があるらしいが。

*1:もちろん、それを遂行できるかどうかも大事なのだけど