純粋贈与について
「経済」は、「交換」で成り立っている。
「交換」は、「相互贈与」を基礎としている。「相互贈与」が「交換」に発展する過程については、いつか説明する時が来ると思う。ただ、アカの他人同士が出会えば即「交換」に至る、という経済学の前提はおかしいとだけ、ここでは指摘しておく。「交換」が行われるには、それが常態的に行われうる素地が、まずそこになければならない。その素地は、長期間にわたって築かれた「相互贈与」関係によって醸成される*1。
さて、「相互贈与」とは、互いに「贈与」することである。ならば、それを手繰っていけば、最後に「最初の贈与」へ行き着くはずだ。
「贈与」は金銭と商品の交換に限らず、行為からなにか霊的な絆に関するモノに至るまで、あらゆるやり取りを含んでいると考えてもらいたい。たとえば、あいさつのやり取りでさえ「相互贈与」であるととらえることができる。ならば、そこには「最初のあいさつ」があってしかるべきだろう*2。これで「最初の贈与」についてはイメージができただろうか。
「最初の贈与」は、何かのお返しだとか、義理を果たすだとか、慣例だとか、そういうモノとはまったく関係がない。なぜならば、それがまったくの「最初」であるがゆえに。つまり、「最初の贈与」は自分をその行為へ駆り立てる強制*3なしに、純粋に・自発的に「あげたい」という気持ちの発露、つまり「純粋贈与」であるはずだ。
"世界の豊かさ"のおおもとは、この「純粋贈与」の蓄積にある、と私は考えている。しかし、この「純粋贈与」は一時のもので、ただ費消されてしまえば、その生命を終えてしまう。なので、「純粋贈与」を保存し、増やしていくためには、世界を豊かな方向へ駆動させるには、もう一つのロジックが必要になる。