京アニの事件について
一方を知ったときはもちろん「なんてことしやがる」「痛ましい事件だな」と思いはしたのだが、稀によくある凶悪犯罪の一つといった感じに受け止めていた。こういう頭のおかしい事件というのは防ぎようがないし、被害に遭うも、免れるも運でしかない。よくこういう事件を取り上げて「社会のゆがみから生まれた必然的な事件」というものの見方をしたがる人もいるが、そういう側面がまったくないとは言わないものの、基本的にはそれこそ誰かが言っていた「不良品」が起こすもので、仮にどこかに「天使にふさわしい国」が存在したとしても、こういう事件を完全に排除することはできないのではないだろうか。
とういうわけで、教訓があればそれだけ取り入れ、あとは被害者に一定の同情を寄せて終わり――と自分の中で解決されるのではないかと思っていたのだが……ここ数日の間で、自分の中で少し違和感が沸き起こってきた。なんというか、アニメを楽しく観られなくなってしまったのだ。Twitter で「京アニを応援するために円盤(要するにDVD/BD)を買おう」「グッズを買おう」「寄附をしよう」という言葉が流れてくるが、そういうのを見るのも怠い。ましてや「ストリーミングサービスを観て応援しよう」なんて無理。当分の間、アニメなんぞ観たくもない。実際、今期は「ダンまち」なんかを楽しみにしていたのだけど、2話を観るのはだいぶ先になりそうだ。代わりにナショナルジオグラフィックなんかのドキュメンタリー系ばかり見ている。そして、そうやってアニメを避けていること自体がテロに屈したかのような感覚があって、なおさら怠い。
事件の全貌が明らかになるにつれ、当初感じていた驚きと憤り、そして――正直に言おう――軽いやじうま根性が去り、その隙間をなんとも言いようのない怠さが浸潤しつつある。そして、今のところそれに抗する手段が逃避以外に見当たらない。
なんといっても怠いのは、劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を楽しみにしていたことさえ、なにか許されないような気がしていることだ。今は制作どころではないだろうし、よしんば見事この困難を乗り越えて作品が世に送り出せたとしても、前のように純粋には楽しめないだろう。多分観には行くだろうが……社会的にも、個人的心情としてもけっして批判できない作品を楽しめるか? 内容に少し不満があったとしても、社会的文脈――悲劇を克服した賞賛すべき作品――を評価に加味せざるをえまい。そんな作品、エンターテイメントとしては怠い。自分の中では、純粋なエンターテイメントとしてのあの作品は生まれる前から死んだ。これほど怠いことが、ほかにいくつもあるとは思われない。
たぶん、今回感じている怠さの本質としては、共感に至るまでにここまでのステップを経なければならない自分の鈍さに少し嫌気がさしているのもあると思う。まぁ、すべてに共感することなんか不可能だし、する必要もないとも思うが、モノゴトの軽重を図るグロテスクな姿を直視させられるというのもまた、精神的にはあまりよいものではない。
自分もかつて会社で同僚を事故で亡くしたことがあるが、そのときは夜通しみんなで泣いて、次の日、寝ずに現場へ送り出さなければならなかった。今思えばすべてを止めてしまうべきだったが、そのときはただ、次から次へと降りかかる目先の雑事に没頭しながら、無事に何もなく帰ってきてほしいと祈る以外なかった。あのニュースの先には、そういうのと同じ(いや、むしろそれよりよっぽど厳しい)状況が広がっていたのに……共感を閉ざしていたわけだ。で、「あぁ、怠い。ぼーっとアニメでも観るか」と自分でクソツボを開けて悶絶している。なんと間抜けなことか。
ちょっと時期尚早な気もするが、あの凄惨な現場は公園になる方向で進んでいるらしい。たぶん、それがいいのだろうと自分も思う。もし桜でも植えるなら、力になりたいと思う。