だるろぐ

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『テンプル騎士団』 ~ 王権と宗教の狭間で

テンプル騎士団 (集英社新書)

テンプル騎士団 (集英社新書)

MediaMarker が死んだので読了を付けなくなって、読書管理がすっかりなおざり(おざなり? どっちだっけ)になっている……たぶん11月終わりに読み終えたのだと思うけど不明。

――さてさて。テンプル騎士団に関する本といえば、割とオカルトが多いイメージ? そんな印象もあって避けてきたけど、佐藤賢一が書いたのだから変なのではあるまいと思って買った。結構面白かったので、3日ぐらいでペロッと読んだ記憶がある。

ダースベーダーのモデルかどうかは知らんが、テンプル騎士団というのは自分が思っていた以上の組織だった。

それはヨーロッパ初の常備軍であり、ヨーロッパ一の大地主であり、ヨーロッパ最大の銀行だった。城塞であり、農場であり、銀行窓口でもあるような支部をヨーロッパ中に張り巡らせる、超国家的な組織だった。相応の権力も振るいえた。中世の国連といってみるが、比べられない潤沢な資金と強力な軍隊を、それも自前で持っていた。必ずしも理念としての平和を押し進めたわけではないからには、あるいは国際金融資本がアメリカ軍を持っていたようなものと形容するべきか。

あと、学校も経営していたらしい。それどころではない、信頼できる海運業者、巡礼者を世話するツアー会社、フランス王に免許をもらった肉屋、王の経理・会計会社(会計検査院)、徴税業務の代行、役人の派遣までをカバーし、出納・監査・融資まで――文字通り王の金玉を握っていた。

修道士(聖)と騎士(俗)という2面性。中世の2大権威のはざまで、商人(、山賊、海賊)以外にもこういう存在があったとは……不勉強でまったく見落としていた。ただ、違いは、商人貴族がルネサンスに共和制を花開かせたのに対し、テンプル騎士団はフィリップ4世にあっけなく消されてしまった点だ。同じような性格を持つチュートン騎士団や聖ヨハネ騎士団も、前者は東方開拓を担ったという歴史的役割はあれど、結局歴史に埋没している(そういえば、チュートン騎士団って最後はどうなったんだろう? ちょっと興味わいてきた)。

聖俗の間にありながら、両方から距離を置いた商人共和国と、双方から離れられなかった修道騎士団……私欲を肯定した商人たちと所有を否定した騎士たち……ちょっとした違いが、こうも異なる結末につながるんだなぁ、と本筋ではないながら感じた。

面白かったところ

「女性の顔をみつめることは、あまねく修道者にとって危険きわまりない行為であると考えられるがゆえに禁ずる。修道士は未亡人であれ、処女であれ、たとえ母、姉妹、叔母の誰かであったとしても、女性に接吻をしてはならない。女性との接吻から遠ざかるなら、キリストの騎士は純な精神と清い生活により、永遠に神のみと歩みをともにするであろう」

これでホモ扱いされて逮捕されるってかわいそう。

一三〇七年十月十三日の金曜日

13日の金曜日はやっぱり不気味。

事実をいえば、ローマ教皇クレメンス五世はほどない四月二十日に死んだ。患っていた癌が理由といわれている。十一月二十九日には、今度はフランス王フィリップ四世が崩御した。こちらは十一月四日に卒中の発作を起こしていて、やはり死因に不自然なところはない。それはそうなのだが、すでにノガレも死に、政争でマリニィも殺され、フィリップ四世の三人の息子たちも、フランス王に即位しては次から次へと亡くなって、遂にはカペー朝の断絶という事態にまで陥るので、やはりテンプル騎士団の呪いなのだと騒がれても、それは仕方ない話である。

テンプル騎士団の呪い、あるんかなぁw

さらに喜望峰を回り、インド航路を開拓したのがヴァスコ・ダ・ガマだが、この船長も実はキリスト騎士団の騎士だった。

余談ながらキリスト騎士団は、白マントに赤十字という制服も、テンプル騎士団のままだった。その艦隊も白い帆布に赤十字を描いた。映画やドラマのワンシーンとしても、しばしばみかける印である。インド、ブラジル、日本にも来たポルトガル船が、テンプル騎士団の印を掲げていたのは、こうした経緯からである。

テンプル騎士団は中東への海運もやってたけど、暇なときはイスラム相手に海賊もやってた。当然、操船技術は高かったろうし、半分、海軍のようなものだったろう(地中海での技術が大洋で通じるかは知らんが)。また、イベリア半島はレコンキスタの関係で修道騎士団とは縁の深い土地だった。大航海時代の一つの礎となっていても、何ら不思議はない。