だるろぐ

明日できることは、今日しない。

一般意志のピエロ――選挙前だしひとこと言っておくか

“民主主義”の論客といえば、まずジャン=ジャック・ルソー(ジャン=ジャック・ルソー - Wikipedia)を挙げなくてはならないと思う。古代ギリシアの民主制にまで遡ってもいいのだけれど、あれはあくまでも奴隷に支えられた社会における成年男性限定の制度だった。現在の普通選挙に通じるものはそれほど多くない。

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

本稿を起こすにあたって、もう一度『社会契約論』を紐解いてみたいと思っていたけれど、なにぶんウチの本棚はカオスで、残念ながらみつからなかった(検索結果: 社会契約論 の検索結果 - だるろぐ)。というわけで、今日はかなりあやふやでざっくばらんな議論になると思うけれど、あとで自分の理解の程度を反省するためにも書き残しておこうと思う。

彼が生きたのは、“理性の時代”だった。

封建主義と宗教に支配された暗黒の中世――という把握が妥当かどうかはここでは置いておくとして――が終わり、その支配を打ち砕く武器として理性が尊重された。信仰されたといってもいい。

その教義によれば、すべての人に理性――ここでは論理的能力と同じようなものだとしておく――は備わっている。女でも子どもでも*1。理性は、たとえば数学がそうであるように、“ひとつの正しい答え”を導きだす(ハズだ)。ただ、謬りなく使いこなすには、多少の訓練が要る。生まれたての理性は曇っているので、使うには研がなければならない。

さて、国民一人一人は、個々別々に多様な意志を持つ。それらは通常、個々の利害によって“汚され”ている。しかし、国民のすべてが十分な教育を受け、十分に啓蒙され、さらに十分な熟議を通じ、その意志を洗練させていくとする。そうすれば、ひとつの“正しい意志”が導き出されるのではないだろうか。

それを“一般意志”と呼ぶ。一方、利害によって汚された意志の足し算は“集合意志”だの“集計意志”だの“合計意志”だのと呼べる。

現代では、たとえ理性的(論理的)に考えたとしても、すべての人に共通する“たった一つの正義”などなさそうだ、ということでコンセンサスがとれている。なかには“たった一つの正義”を信じている人もいるけれど、彼らに必ず(自分たちと同等以上の理性を備えた)敵がいるという事実が、図らずもこのコンセンサスの正しさを裏付けている。もしかすると、無限の理性を仮定すれば“たった一つの正義”が存在するのかもしれない。しかし、その仮定には意味がない。

とはいえ、そこそこの合理性を備えた複数の“一般意志”というのはあり得るのではないだろうか。

たとえば、自分の食事を削ってでも世界の人が平等に飢えずに暮らしていける世界を望むのは、ひとつの“一般意志”として合理性をもつ。一方で、長期的には平等を目指すけれど、当面は自分の周りの幸福を目指し、それを徐々に世界へと広げていくというやり方も、より現実的な施策であり、“一般意志”として合理性をもつと思う。また、そのやり方にもさまざまなアプローチがあり、首尾に一貫がるならばそれぞれに“一般意志”を認めていい。

自分はこのブログで、より成熟した“政党制”の実現を何回か主張してきた(政党制)。そのとき、政党の理念として念頭に置いていたのが、この“一般意志”だ。政党は“一般意志”を代表すべきである。

“一般意志”は集計できない。
“一般意志”は首尾一貫でなければならない。
“一般意志”は反証可能でなければならない。
“一般意志”はアドホックな例外を許してはならない。
“一般意志”は曲げてはならない。

もっといえば、政治家は“一般意志”のピエロであるべきだ、と思う。個々の人柄のよさなどどうでもいい。そんなものは一度苦境に陥ればすぐに変節する。それを縛り、筋書き通り踊らせるのが政党。政党はムチをしならせたサーカス団の団長の役目を果たす。所属する政治家<ピエロ>が政党の理念――“一般意志”――という筋書きを逸脱したら、それを鞭打つべきだ。ピエロの方も、団長の方針がブレていると感じたならば、論理をもってそれを正すべきだろう。ましてや、公演中にほかのサーカス団に鞍替えするようなことはあってはならない。

このような政党のあり方としては、共産党が一番マトモと言える。しかし、いかんせん、自分の好みではない。ほかはだいたい支離滅裂で、一時期みんなの党には期待を寄せていたが、最近は互いに矛盾する政策を掲げることが多くなったように感じる。

しかし、これは有権者に対しても言えるし、有権者のせいでもある。

民主主義というのは、文字通り、民が主であるべきという考え方だ。国民一人一人が自分を治め、他人を治める君主であるべきなのだ。実際にそれが能力に余ることだとしても、そういう心構えは必要であると思う。一度自分の個人的な利害を棚に上げ、なるべく広い分野に目を配り、首尾一貫した“一般意志”をもって投票に望むべきだろうと思う。

たとえば、原発反対や表現規制への反対といったワンイシューで投票する人がいる*2。けれど、それは国を治めるひとりの“君主”としてあり得べき態度なのだろうか。

ただ自分の利害を票に託すのであれば、家に引きこもって開票速報を楽しんでいるほうが害は少ないように思う。その点、投票率の低さというのは個人的にはあまり気にしていない。問題はどれだけ質のよい“一般意志”が投票に反映されているかだ。

日本には、特定の政党を支持することが恥ずかしく、無党派層であることがカッコいいという風潮がある。しかし、定見を持たないことのほうがもっと恥ずかしいのではないだろうか。

無論、受け皿となる政党がなかったり、自分で出馬するにしてもお金が要ったり、仮に非常な決意で出馬したとしても、低俗な週刊誌に“血統”を叩かれて終わるといった問題はあるのだけど。

*1:古代ギリシャではそうは考えられていなかった。だから、普通選挙など考えられもしなかった

*2:「小泉政権はどうだ」という人がいるかもしれないが、アレは国民の貯蓄を国が吸い上げて国が使うという戦後のスキームを変えるのが真の狙いだったので、厳密にワンイシューかと問われれば、そうも言えないのではないかと答えておく。