だるろぐ

明日できることは、今日しない。

退職金とヘリコプター

退職金引き下げで地方公務員に駆け込み退職者が続出したことを巡って、議論が盛り上がっている。ネット上では、政治家が余裕を持って制度改変をしなかったことが悪いという声も多いようだ。

論争が起きたのは、埼玉県が2013年2月からの退職金引き下げを決め、100人以上が1月末で辞めることが発覚してからだ。

教員らの「駆け込み退職」仕方ないのか 公務員モラル巡って議論沸騰 (1/2) : J-CASTニュース

「駆け込み退職などという矜持のない行為は言語道断!」という意見と、「駆け込み退職を招く制度が悪い、彼らに罪はない!」という意見が対立している。

自分は基本的に後者の意見に賛成だ。当然考えうる事態なのに、なぜ誰も事前に指摘しなかったのだろう。日本人は相変わらずインセンティブの設計に対する感覚が鈍いと思う。

その一方で、あまりにも「駆け込み退職」を正当化しすぎるのもどうかと思う。なぜかって? じゃぁ、今朝 Twitter で獲れた新鮮なネタで説明しよう。

棺桶を撮影するためにヘリコプターを飛ばす

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今 Twitter を覗くと、こういう絵を撮るために報道各社がヘリコプターを飛ばすことへの批判が多くみられる。一例をあげるならこんな感じ。

テレビを見るつもりは無かったけれど居間にいたので、ぱっとテレビを付けられて流れて来たのは、件の事件の被害者の方々が遺体で日本に戻られた放送だった。ヘリコプターまで出して実況中継をするテレビ局。その情報を欲しがっているのはわたしたちなのだろうか、、。テレビは消した。

自分もそんなに必死になって棺桶写さんでもいいだろうにな、って思う。

けれど、実際のところ、記者は会社の命令に従って動いているだけなんだよね。意に沿わない仕事であっても、やらなければならない。正確に言えば拒否することもできるけれど、おそらくあとでそのツケを払うことになる。

共通する構造

一見、この二つにはなんら関係性がないようにも思われる。けれど、注意深くみてみるとそうでもないんじゃないか。

「駆け込み退職」を正当化するということは、個人が制度・状況に逆らわないことを肯定するということだろう。150万の退職金上積みを捨てるのは、あまりにも酷だというわけだ。じゃぁ、記者がわざわざヘリコプターを飛ばして棺桶を撮影するのも仕方がないことなのではないだろうか。職務を拒絶すれば、多分職を失うか、下手すりゃ何千万の生涯賃金を失う。

報道機関のトップが止めるように決断すればいい、という意見もあるだろうけれど、彼らだって世論と売上、使命を天秤にかけている。単に状況に流されているだけかもしれないが、万が一横並びの方針を捨てて他紙に負けるようなことがあれば、自分の評価に響くだろう。ならば、個人が制度・状況に逆らわないことを肯定するという立場から、彼らを批判するのは少々無理があるのではないか。ヘリを飛ばすのも、仕方ないじゃないか。

少し譲って、報道という聖職に携わる者ならば、勇気を出して既存の悪しき構造と戦うべきだ、そうする義務があるという意見をいれるとしよう。ジャーナリズム的にはそっちの方が格好いいと僕は思う。また、会社のトップにはそれ相応の責任があるはずだ、という意見に賛同する人だって多いはず。

しかし、そうであるならば、教師や公務員にも同様に、義務や責任が要求されるべきなのではないだろうか。おカネに目がくらんで子どもを放り出す教師があっていいのだろうか? 公ではなくカネのために動く公務員は褒められたものだろうか*1

結局のところ。

現実の構造と立ち向かうにはあまりにも非力な私的個人と、責任と義務を帯びた公的役割。糧を得るために働く私的個人と、糧を与えてくれる公的役割としての職業。これらはどうしても矛盾してしまうところがある。

そして、僕も含めて、自分にとって近しい例では私的個人の方を、自分にとって縁遠い例では公的役割のほうを重視してしまう。ある意味、これは仕方がないが、大事なのはそれを自覚していること。都合のいい時だけ都合のよい立場を採るのは、よくない。

構造を覆してきたのは、いつの時代も人の意思だった

もう一つ強調しておきたいのは、インセンティブに流されること、構造に従うことだけが“人間”の本性ではないということ。

よくみられる経済学への誤解に「経済学って所詮お金のことだけでしょ?」ということがあるけれど、それは違う。お金のことだけを考えているお前らを、十把一絡げに、マスとして扱って分析するのが経済学(の一部)なだけだ。経済学は、お金を肯定する学問ではない。インセンティブの研究として、もっとも典型的な貨幣を扱うだけの話。経済学の本をちょっと読んで、「人間はおカネで動くんだよ」だなんていう人もたまに見かけるが――

“人間”はもっと自由だ。

「こうなるように」「ああなるように」とインセンティブを設計したとしても、それに従う義理はない。大多数の人間がそれに逆らえば、設計は覆る。

人が構造に従うのはある意味仕方がないし、責められない。妻子や守るものがいれば、きっと独り身の僕ほど気ままじゃない。

けれど、一人が構造を肯定すれば、その構造はそれだけ強固になる。その分だけ構造に逆らう人を苦しめてしまう! あんまり大げさな例を出したくないが、戦時下の反戦運動家の多くは、無邪気な“庶民”の構造肯定の前、体制の本丸へたどり着くことなく倒れていった。

自分が「「駆け込み退職」を(招く構造を)正当化しすぎるのもどうか」というのは、そういう意味で言っている。なかには150万円のおカネを捨ててでも子どものためっを思って残る人がいるかもしれないのに、みんながみんな「駆け込み退職」を正当化すれば、その人がバカみたいじゃないか。まぁ、そんな人は、そういう感覚からとうの昔に“自由”であるかもしれないが……。

最後に誤解がなきように行っとくけど

そもそもの制度設計が間違っているという点については、言うを待たない。なんでそんな制度にしたのかな! みんなもっと経済学とインセンティブを学ぼう。ほんのちょっとの工夫で、状況に逆らうことによる息苦しさはかなり軽減されるのにな。入門向けには大竹先生の新書が評判いいみたいだよ。

経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)

経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)

確か、相続税周りの法律をイジったら寿命に影響があった、だなんていう類の愉快な話がたくさん収録されていた気がする。

*1:報酬によって義務や責任に差異を設けるべき、という議論はここでは置いておいてほしい。また別の機会を設けたいと思っている