だるろぐ

明日できることは、今日しない。

庶民について

選挙期間中に Twitter を読むのは本当によくない。

他人と意見を異にするのは仕方ないにしても、無理解にはいちいち腹が立つ。自然とツイートにもトゲが立つ。けれど、「じゃぁ、お前が何から何までわかってんのか」と問われると、たぶん決してそうじゃない。きっと自分より「理解している」ひとから見れば、自分のツイートなども無理解に満ちているんだろう。ひとり歩いているときにそういうことに気付いて、なんか自分にも腹が立ち、情けなくなる。なのに、政治ほったらかしの平和なツイートを読んでは、心にさざ波が立つ。なんて平和なんだ、こいつらは! 完全に八つ当たりだなと自覚しているから、余計立つ瀬がない。ついこの前まで、のんびりと楽しんでいたのに。もうこういうことからは、なるべく自分を遠ざけたいとすら思う。

けれど、ひとつだけ言いたい。なぜみんな自分のことを“庶民”と言ってしまうのだろう。

「我々庶民は――」「庶民の暮らしのことを考えろ」

わしだって“庶民”かもしれないが、自分から“庶民”と名乗ったら終わりじゃないか?

一般の民衆を指す。〈庶〉はもろもろの意で,衆庶,百姓(ひやくせい)も庶民と同義である。庶民は,市民や人民が歴史的規定のもとにみずからが政治性や階級性を意識している存在とは異なる。また,産業社会にあって非組織的な存在としての大衆や,民俗学で用いられる伝統的な生活様式,固有文化を保持する人びとを指す常民common peopleとも異なる。すなわち,〈庶民とは伝統的価値意識のなかに埋没している人びと〉(日高六郎)である。

庶民(ショミン)とは - コトバンク

一時期、客の側から「お客様は神様だ」と言ってはならない、おかしい、という批判が話題になったことがあった。それは店側の論理・倫理であって、けっして客が振り回していいものじゃない。客自身が神を名乗れば、それはただのクレーマーだ。

それと同じで、“庶民”というのは、“庶民”ではない、言うなればエリートの側の用語。たとえば、学者や新聞や政治家のような。「オレたちのような特別な存在とは違う、(無価値で)フツーのひと」というニュアンスがそこにはある。“庶民”自信が“庶民”を名乗れば、それを追認することになってしまう。新聞が「庶民は……」と書くのはムカつくけど正しい。でも、“庶民”がそれに乗る必要なんてない。

なのに、自分で自分のことを“庶民”と呼ぶ人がいる。これは耐えがたいことだ。

だったらなんと名乗れと問われれば、それは本来“市民”*1なのだけど、今の日本ではなんとも胡散臭い響きなのが困る。ファッション左翼が手垢をつけてしまった。

*1:市民は自覚的な存在である