だるろぐ

明日できることは、今日しない。

道徳心と共感、日常。

宮城県の沿岸13自治体で障害者手帳所持者の3・5%にあたる1027人が東日本大震災で亡くなり、死亡率が住民全体の2・5倍に上ったことが30日、分かった。障害者支援団体「日本障害フォーラム宮城」の資料から共同通信が集計した。

大半が津波による溺死とみられる。

大震災、障害者の死亡率2・5倍 宮城沿岸部、犠牲1千人超 - 47NEWS(よんななニュース)

平均寿命低下を招いた主な原因が、2011年3月の東北地方の地震と津波の死亡者だったというニュースに、人々は一段とうなだれた。これは、世界でも高齢化が進む一角で、大災害が偏って高齢者を襲ったことを思い出させる話だった。1万8800人近い死者・行方不明者のうち、56%が65歳以上だった。

日本の震災と人口動態:世代間闘争

権利だの社会保障だのは、最後の最後でヒト――とくに弱者――を守らない。高いレベルで維持された「日常」こそが、権利や自由を支えている*1。その「日常」が破壊されたとき、頼れるものは結局自分の力(と運)しかない。弱者は強者の助けを必要とする。強者が弱者を助けられるか否か。それは、日ごろ培われた「道徳心」と「共感」の強さにかかっている。

「道徳心」とは、自分の中に「~すべきだ」という基準をもっていること。そして、それを実行する勇気や覚悟をもっていること。自分にも経験があるが、死を目の当たりにすると頭が真っ白になって、足がすくむ。思い返せば情けないが・・・・・・結構難しいんだ。けれど、一度経験してしまえば、それより簡単な道徳心は容易に発揮できるようになる。自分の中に「~すべきだ」という基準をもってさえいれば。

「共感」とは、他人の痛みを自分のことのように感じる能力を言う。これは先天的なものではなく*2、後天的なものだ。付き合いのない人間のことは比較的どうでもよく、身内や友人、毎日顔を合わせる知り合いに対しては共感が深まる。おそらく、それが普通だ。キリストやブッダ、ムハンマドマザー・テレサといった偉大な宗教家は、尋常じゃない共感力を備えているのだと思うけれど、たぶん、普通のヒトはそうではない。自分の世界を広めて、たくさんのヒトとふれあい、自分の足元から少しずつ共感対象を増やしていくしかない。

失われた「日常」はすぐに取り戻せる。経験したことのないことを実現するのは難しいが、一度当たり前になった経験――「日常」――を取り戻すのは案外簡単だ。それがどういうものかイメージできるし、そこに至るプロセスも知っている。あとはそれをなぞるだけ。けれど、基盤となっている「道徳心」と「共感」が脆弱であれば、「日常」を取り戻すのは難しいかもしれない。「日常」が破壊されたときに失われるものが多すぎるだろうし、「道徳心」による自己献身と「共感」による協力精神なしで新しいものを築くのは困難だ。

日本とハイチで「日常」を取り戻す速さが違うのは、経済的な力もさることながら、この「道徳心」と「共感」に負うところも多いのじゃないだろうか、と思う*3。そもそも経済だって、その基盤は「道徳心」と「共感」にある。アダム・スミスがそう言っていた。

*1:僕がデモを嫌うのは、それが「日常(市民社会)」の破壊行為であるからだ

*2:孟子は間違っている

*3:ハイチにそれがないからダメだ、というわけではなく、先人が積み上げた歴史に差があったということ