繰り返された贈与の過程について
資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積として現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならない。
マルクスは経済の分析を「商品」から始めたけれど、これは少し勇み足だった。とくに特殊的価値形態から一般的価値形態への論理の飛躍には無理があると感じる。
商品が商品にあるためには、それが「交換」過程―モノが商品として交換される場―になければならない。しかし、これは自明のモノと言えるだろうか。そうは思えない。
簡単な例を挙げよう。たとえば、道行く見知らぬ人に何かプレゼントを贈って、「これと見合うものを私にください」という場合を考える。これは成功するだろうか?――おそらく無理だ。怪訝な顔をされるのがオチだろう。中にはコレに応えてくれる奇特な人がいるかも知れない。それも、これだけ文明化された*1社会だから行われうるのであって、未開な社会ならばまずそれを「強奪」することを考えるかもしれない。
逆に、日頃モノをやり取りする仲ならば(お歳暮でも何でもいい)、この試みが成功する確率は格段に高い。つまり、「交換」には「贈与」という前段階がある。しかもそれは、繰り返された過程として存在しなければならない。
前回、私たちはこの繰り返された「贈与」を分解して「純粋贈与」を発見した。しかし今度は逆に、それが繰り返される過程を検証して「贈与過程」の正体を明らかにする必要がある。
*1:のちのちこれは重要なキーワードになる予定