『ジョン・ローの虚像と実像―18世紀経済思想の再検討』
博打打ち、銀行家、殺人者、王室顧問、亡命者、放蕩者、冒険家だったジョン・ローは、その独自の経済理論以外でもいろいろ有名だ。かれの一般的な名声(あるいは悪名?)は、かれがパリで行った二つのすばらしい事業からきている。Banque Générale とミシシッピー方式だ。その経済的な名声は二つの大きな発想からくる。価値の希少性理論と、通貨の真手形 (real bill) ドクトリンだ。
ジョン・ロー (John Law)
彼が非情に興味深い人間なのは、以下の証言からも明らかだろう。
- 「詐欺師と預言者が面白い具合に混ざり合った人物」(マルクス『資本論』)
- 「向こう見ずで分別に欠けるが稀代の天才」(マーシャル『貨幣・信用および商業』)
- 「あらゆる時代を通して最良の貨幣理論を構築した人物」(シュンペーター『経済分析の歴史』)
- 「近代的な銀行紙幣の理論、銀行の供与する信用業務、銀行の準備金を理論的に解説した最初の人物」(ワッサーマン、ビーチ)
- 「資本不足が産出の主要な制約であることを説いた最初の経済学者」(ブリュワー)
- 「博打打ち、銀行家、殺人者、王室顧問、亡命者、放蕩者、冒険家」(上記引用)
- 「金匠の家に生まれ落ちた金の敵」 *1
そもそもこの人をロー(Law)と呼ぶのすら正しいのか。John Las(ジョン・ラス)、Jean Law(ジャン・ロー)、John La(ジョン・ラー)、Giovannni Law(ジョバンニ・ロー)とも呼ばれたらしい。スコットランドからフランス、ヴェネツィアと幅広く活躍した人なので、各国語の呼び方・訛りが混合してさまざまな呼び方が生まれているようだ。
ジョン・ローは金匠(Goldsmith)の家に生まれた。金匠というのは今で言う銀行のはしりで、顧客から金を預かって保管し、代わりに預かり証を交付する。預かり証はなかば紙幣のように流通する。金匠は_実際に手元にもっていなくても_預かり証を発行できる。これは現代の銀行でもあまり変わらず、彼らはおおよそ_預かり証(信用)_の1/8程度しか実資産をもっていない。後代、ジョン・ローがこのシステムを国家レベルで運用してみよう(Banque Générale:一般銀行、今で言うところの中央銀行)と思ったのも、生い立ちからすればごく自然のことだったのかもしれない。
ジョン・ローがもう一つ編み出したのは、中央銀行が創造した信用を事業に投資して、さらに大きな利潤を得る方法、つまり、フランスがアメリカにもつ植民地ミシシッピー(ルイジアナ)への投資だ。これは結局利をあげず、最後は詐欺的なデモンストレーションでお金を集めて回す"火の車"状態に陥って破綻、王国に深刻な経済的混乱を振りまいた。このことは、あの血なまぐさいフランス革命の遠因にもなったという。この教訓は、今でも中央銀行の独立、金融政策と財政政策の分離という形で現代にも生かされている *2 。
一般的にこの_ローのシステム_はジョン・ローという稀代の詐欺師がフランス王国を誑かしたものだと思われている。しかし、実はそうではないというのが本書の主張だ。
彼は私利であの呪わしいシステムを作ったのだろうか? 私欲がシステムを破綻させたのか?
当時、フランス王国は巨額な財政赤字に苦しんでいた。王国の威光が薄れ、税の徴収すらままならない。そこで徴税請負人にアウトソーシングしたところ、徴税権を買い叩かれるわ、彼らのマージンまでついた重税に苦しむ臣民からは反発を食らうわで、王国はにっちもさっちも行かなくなったていたのだ。その解決を任された(買ってでた?)のがジョン・ローというわけ。なので、ジョン・ローの敵は徴税請負人と、そのパトロンである大貴族連中――アンシャン・レジーム――であった。
「わたしの直面したものが貨幣危機(金融危機)だけであったならば、その解決策は容易であったろう。しかしながら、フランス王国がかつての繁栄を取り戻すことを可能にするならば、わたしは貨幣危機と財政危機の双方に立ち向かわなければならなかった」
結局、ジョン・ローは歴史の敗者になった。しかも、ローを打ち負かした勝者も、その後すぐにローの後を追う羽目になった。いわば、敗者のそのまた敗者であり、弁明の機会もなく過大に貶められているというのは大いにありそうな話だ。
本書はほかにも、ローの経済理論やリシャール・カンティヨンの『商業論』 *3 との関係についても、大きくページが割かれている。僕にはそっちも大いに参考になった。
これなんかもオススメ。経済学の揺籃期はおもしろい。