価格について
わしはお店でよく値切るのだけど、東京だと「よくやるね」と言われる。「関西人だから?」とも言われる。けれど、わしから言わせてもらえば、相手の言い値に唯々諾々と従っていることのほうが不思議でならない。それは、おかしい。
コンビニや、立ち食いそばで値切ろうとは、わしだって思わない。行く前からだいたいの価値はわかっているんだし、店員は値下げの権利ももってないだろうし、文句をつけてもしょうがない。気に入らなければ行かない、買わないだけだ(量的調整、マーシャル的調整過程)。けれど、高価な家電を買うとき、クルマを買うとき、よくよく交渉するのは何も悪いことじゃない。相手だって、若干ふっかけている部分があるはずだ。まったく売れないよりは、価格を下げて売る方を選択するだろう(価格調整、ワルラス的調整過程)。
そもそも、値札に書いてある数字は価格ではない。単なる言い値だ。買う側がそれに合意してはじめて価格として成立する。そうであるはずだ。相手が値下げに応じないなら、それも仕方ない。買わない(または、言い値を受け入れる)だけの話だ。相手は、代わりに販売量の低下を受け入れることになる。
だから、値切るばかりでもない。わしはタクシーに乗るとき、よくしてもらった運転手さんにはお釣りを渡すようにしてる。居酒屋で呑んだ時も、楽しく飲めたときはときどきお釣りは要らないという。つまり、自分が払いたい価格を自分で設定しているつもりなのだ。それは、自分にとって感謝の意思表示でもある。相手だって、知らず知らずのうちに閑古鳥が鳴くようになるより、価格交渉をきっかけに需給に関する情報を得られたほうが幸せだろう。
他人にも「そうしろ」だなんて言わない。その代わり、自分のすることを奇異に思わないでほしい。画一的な価格を受け入れる大衆というのは、歴史的、地域的に見て、非情に限定的な存在だと思う。ありふれて、頻繁に買うモノでなければ、購入時に価格交渉する方が当たり前だろう。