餓死するロバは恋ができない
(via: ズーラシアのロバ ふたたび - 世界の笑顔に出会いたい - Yahoo!ブログ)
『中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ』 - だるろぐ の最後の方でビュリダン(ジャン・ビュリダン - Wikipedia)が登場したので、「ビュリダンのロバ(Buridan’s Ass)」の話を久しぶりに思い出した。この寓話はアリストテレスの『天界について(De Caelo)』が元ネタで、ビュリダンその人が考案したものではないらしいけれど。僕が初めて聞いたのは、大学1回生の頃のミクロ経済学原論の講義だったか。問題の設定は以下のとおりだ。
- 2つの飼い葉桶があり、1頭の"合理的な"ロバがそのちょうどその中間点にいる。
- 飼い葉桶にはそれぞれ同じ量、同じ美味しさ(つまり、同じ効用)の飼い葉がはいっている。
- さて、ロバはどうするでしょうか。
答えは「ロバは餓死する」。
ロバは"合理的"であるがゆえに、等価な効用をもつどちらの飼い葉をも選びとれない。もちろん、「選択できずに死んでしまう」のが本当に"合理的(≒賢い)"といえるのか? という問題は別にあるのだけど。現に、アマルティア・セン(アマルティア・セン - Wikipedia)などは「飼い葉を選考すること<死」という選好は"合理的"と言えるのか? と問題提起している。
この寓話からは色々な教訓を引き出せる(と思う)。
- ある種の"合理性"限界(結局、"合理的"なのは"馬鹿"なのと変わらない)
- 現実の選好には与えられた問題設定以上の情報が必要とされている(実際は「飼い葉を選考すること<死」などという問題設定とは別次元の価値判断をとりいれることで、何らかの決断をしている)
- 決断主義(つまり、「どれがよいか」より「どれを選びとるか」が大事なんだ!)
これを恋愛に応用してみよう。
近代以降の価値観では、キレイな女の子も、ブサイクな女の子も、すべて平等に扱われるべきだ。実際に自分がどう思うかはともかく、そう扱わないと社会的制裁を受けるし、素直で性格のよい男の子ならば、そのように教育され、なるべくそのように振舞おうと自分から努力している(なんと麗しい!)。
すると、たちまち「ビュリダンのロバ」問題にぶち当たる。理論上、男の子が"合理的"ならば、どの女の子も選ぶことができない*1。
まぁ、科学的に言えば"恋をする"というのはある種のホルモン分泌と等価であるらしいので、それに身を任せて選んでしまえば、「選好」などという面倒な事はしなくてもイイ。けれど問題なのは、最近の男の子は頭デッカチになりすぎて、その化学反応の原理すらすでに知っているということ。ホルモンが分泌するまま身を任せるのは、相手に対して不誠実だと考えてしまうのだ。逆を考えたらわかるだろう。夜中に変なホルモンを発散しまくった女の子に襲われたらやっぱりイヤだ。
結局、"合理的"であることを強いられている*2草食系男子は、飼い葉を選べず餓死するというわけ。気づいた時には、美味しそうな飼い葉はすべて"不合理"なライバルに奪われている。
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何が言いたいかというと、俺は野獣になることにした。