サンデル 『公共哲学』
邦訳が出たら買おうとずっと待っていた。で、読んだのだけど、論文集であるためか、サンデル自身の考えというのは断片的に、しかもある事柄のアンチテーゼとして示されているのみで、あまり理解できなかったように思う。
そんなわけで、全部読んでも飽きたらず、公共哲学とは何か(PDF) なども参照してみた。
サンデルの主張は、いわゆる「リベラリズムの公共哲学」では行き詰まってしまうので、それに代わり、市民が政治に参加するというような「リパブリカニズム(共和主義)の公共哲学」が必要だというものです。単に社会契約で成り立つ政治とは違う、人々がコミットメントして行なわれる政治の在り方が望ましいと彼は主張しているのです。
なんかこれを読んで、本書における主張が全部が繋がってきたように思う。
人々の判断の基準には二つある。理論的に導き出せる「正」と、現実の生活の中で受け継がれたり、独自に獲得した「善」だ。「正」は客観的な基準であると同時に論理学に住むが、「善」はあくまでも主観的な基準であり活動的生活に根ざした感覚的なものだ。「正」はその論理的正しさゆえにグローバルな性質を持つが、「善」はどちらかというとローカルな性質を持つ点でも異なる。そして、「正」と「善」は常に一致するとは限らない。
「権利」という概念に根ざしたリベラリズムは、「正」を「善」に優先させる。とりあえず、"善悪"についての話題は括弧に入れ(棚上げ・無視して)、論理の整合性をまず問う。しかし、それでは自分たちの「善」が無視され、脅かされたと感じてしまう人達がいる。要するに、保守的な人たちだ。
保守派は、自分たちが「善」に則った生活、市民的な生活を送ることが、"公共なるもの"(≒社会、地域、政府、国家)を支えていると自負している。いかに中絶が女性の権利であると「正」の立場が述べても、それがこれまでの生活で培った基準に照らし合わせて「悪」であれば、社会の秩序を乱す恐れがあり、「善」の立場としては認められない。
実際のところ世界のほとんどの人は保守派なので、リベラル派がその政策を実現するには、「正」を強調するのではなく、「善」の領域に踏み込まなければならない。
また、「正」を奉ずる立場には、もうひとつの問題もある。「正」は一つだが「善」は多様であるが、「正」の教義には"多様性を尊重すべし"という教えも含まれている。「正」は「善」を抑圧してはならない。ここに、「正」の立場の自己矛盾がある。
だったら、どうすればよいか。
社会を分節化して、たくさんのローカルがそれぞれの「善」を体現できるようにする。そして、それらが「正」の論理でもって緩やかに繋がれる。そんな「分権的」な社会になればいい。たしかにアメリカはそういう社会を目指していた。けれど、もうひとつのグローバルな力「市場」が台頭すると、ますます事態が混迷してしまった。
サンデルの"公共哲学"は、そんな「正」と「市場」という二つのグローバルな力と、「善」の関係がメインターゲットになっているのかなぁ、とぼんやり感じた。
疲れてきたので、今日はこの程度。