それは一人の人間の生涯の間しか安定できぬからです。
あなたはフィレンツェ人たちのたいへんな志操堅固さを、またそれがこのように作られた共和国を愛するがゆえであることを、間違いなくご存じでしょう。あなたのご主人の志操堅固さは、たとえ偉大極まりないとしても、束の間のモノです。なんとなれば、それは一人の人間の生涯の間しか安定できぬからです。しかし共和国は続くのです。
――カヴァルカンティ『フィレンツェの歴史』
このブログでも何回か引用した言葉だが、ちょっと前に古い友人が「この言葉、いいね」と言ってくれた。そのときちょっと喋って気付いたのだけど、共和主義の本質というのは、この“続いていく(持続可能性)”ということにあるのではないか(気付いていたけれど言語化はされていなかったというべきか)。なかでも、新しく参加するものがいて、その一方で退出するものがいるにもかかわらず、その“場”は変わらずに続いていく。そういうものが一層共和主義的だ、と思った。
そして、そこにこそ民主主義と共和主義の違いがある。
共和主義にとって民主主義はメソッドの一つに過ぎない。“善く”行われていさえすれば、それは貴族政でも構わないし、下手すれば王政であってもいっこうにかまわない(アンチ王政としての共和主義の意には反するが、民主主義の“鈍重さ”を補うために君主制的要素を併せ持った共和国は少なくない)。いずれにせよ、個の自由は“場”の安定した持続の上にこそ成り立つという自覚こそが、共和主義的精神の根本にある。個の自由を図る以上、“場”には個が参加できていなければならない。その意味で、この精神は必然的に民主的色彩を帯びるが、刹那的・個人的ではありえない。持続する“場”を基盤とする以上、出発点は伝統的・集団主義的だ。ただ、それを無批判には受け入れず、ときには変革をも辞さないというだけのこと。
しかし、民主主義はそれそのものがゴールだ。たとえ刹那的・個人的な欲望の集合体であったとしても、それが民意の反映であれば本質的には肯定されうる。「少数の“賢者”の声に、“大衆”は耳を傾けるべき」などという言葉は、所詮、純粋な民主主義には不釣り合いなものだ。なぜなら、民主主義において個人個人の意見は――たとえバカでもアホでも――平等に扱われるべきだからだ(実際には権威主義に流れるとしても)。だから衆愚政治や全体主義を防ぐことができない。
民主主義の原則として挙げられる少数意見の尊重だの、市民としての義務だの、政治制度に参加する責任だの、寛容と協力と譲歩だというものは、畢竟、共同体の持続を是とする共和主義に由来するもので、正確には“民主共和主義の精神”とでも呼ぶべきものだ。