だるろぐ

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『伊予河野氏と中世瀬戸内世界―戦国時代の西国守護 』

伊予河野氏と中世瀬戸内世界―戦国時代の西国守護

伊予河野氏と中世瀬戸内世界―戦国時代の西国守護

読んでから思ったのだけど、高校の頃世界史を選択したせいか、自分はちょっと日本史の知識に欠けている。もちろん一通りは習っているのだけど、南北朝・応仁の乱あたりの守護大名とかあんまりよくわかってない。そのせいもあって、若干読んでてつらいところがあった。そこは布団で iPhone をいじりながら、適宜 Wikipedia を参照している。

  • 第一章 室町幕府――守護体制の変質と河野氏
  • 第二章 応仁の乱と河野氏
  • 第三章 守護支配の強化と国人領主層
  • 第四章 西瀬戸地域の軍事的緊張と伊予
  • 第五章 左京大夫通宣と来島通康
  • 第六章 河野通直と芸州の一体化
  • 第七章 統一政権と河野氏の滅亡

かの豊臣秀吉は、伊予を“九州四国のかなめ所”と呼んだらしい。陸路よりも海路が重んじられた中世においては、まさに伊予は兵法でいうところの“衢地”だったのかもしれない。京都と大宰府を結ぶ線上にあって、安芸・周防・豊後・讃岐に接続している。そのおかげか、周りからいろいろちょっかいをかけられる存在、というか、周りに振り回されざるを得ないところが多かったようだ。

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室町時代、、河野氏には惣領家(本家)と予州家(分家)の対立があった。惣領家には畠山氏が、予州家には細川氏がバックについており、畠山が優位のときは惣領家が、細川氏が盛り返すと予州家が、伊予の守護を務める有様であったという。

しかし、惣領家を支援していた畠山氏が分裂・衰退すると、阿波・讃岐・土佐の三国の守護を兼ねていた細川氏は、伊予の直接支配を目論むようになる。“予州家に不義あり”と幕府に予州家討伐の許可を取り付けると、伊予国内でも山間部の領主が中心となって反河野の旗を掲げ、細川氏を伊予へ引き入れた(寛正伊予の乱)。将軍の名を受けて、安芸からは毛利・吉川・小早川、石見からは得屋・出羽、周防からは大内といった氏族が伊予に攻め寄せる。

そんななか、なぜか大内氏が突如、河野氏に味方する。どうやら細川氏が四国全土を支配してしまうのが面白くないらしい。また、大内氏は芸州の武田氏とと揉めており、武田氏の肩を持つ幕府・細川に不満を持っていた。そんなわけで、幕府にタコ殴りにされそうになっていた状況は一変、伊予はさながらベトナムのごとく、大内 vs 細川の代理戦争の舞台となってしまう。河野氏も内輪もめしてる場合でないと本家・分家の講和を成立させ、大内氏の力をバックに国内の平定と細川氏勢力の排除にあたった。

しかし、応仁の乱が勃発するとこの講和は再び破局。当時の伊予守護であった通春(予州家)が西軍側(山名、大内)として京で戦っている間、伊予で留守を守っていた惣領家が土着豪族を味方に引き入れ、東軍(細川)にくみしてしまう。やがて惣領家は予州家を圧倒し、守護の座に返り咲く。さらに細川氏が勢力を弱めると、惣領家は予州家を差し置いて大内氏と関係を深め、やがて大内氏とのパイプを頼りに惣領家と張り合ってきた予州家は決定的に衰退することになる。

これで国内は統一、万々歳――と思いきや、こんどは大内氏の方が怪しくなる。当主・大内義興が京都で幕政を切り盛りしている間に、おひざ元の中国・北九州がきな臭い。安芸の武田、出雲の尼子、豊後の大友氏などが反大内包囲網を形成、河野氏の幼主・通直もどちらに組するか決断を迫られた。河野氏は大友氏と結ぶことを選ぶが、大内氏が糸を引いた国内の反乱に悩まされることになった。

……と、まぁ、こんな感じに(このあとも小早川氏に服属するまで延々と続く)、周りの勢力に振り回されっぱなしって感じだった。伊予の国が農業的に自立できる土地ではあまりなさそうなのと、後背地を持たず、つねにどこかの勢力の圧迫を受けていたことが原因になるのかな。

割と面白かったので、もう少し基礎知識増やしてからまた挑戦したいと思う。