『規範とゲーム: 社会の哲学入門』
内容を忘れかけている。
昔、大学(経済学部)にいた頃、僕はゲーム理論に興味があった。後期のシラバスをパラパラみながら、「言語ゲーム」の講座があったので顔を出してみたのだけど……なんだかマニアックすぎてさっぱりでした\(^o^)/実質的に前期からの続きものであったみたいで、そもそも受講者も少なく(10人以下)、疎外感が半端無かった……
そんなわけで、「言語ゲーム」はゲーム理論とは違うということを肌身で知ったのでした。本書は、そんな言語ゲームの話で、要は「社会をゲームとして記述してやろう」という話ですね。
言語ゲームやら法哲学やら、個人的には知らない事だらけだったので役に立ったなぁ、というのが第一の感想。たとえば、本書では、事実の三分類<物理的事実、内省的事実、社会的事実>が提案されている。僕が思うに、これは<だれにも変えられないこと、自分のこと、みんなのこと>と言い換えられるのかな。一つ目はまさしく「ゲームのルール」で、あとは自分 vs みんなで争われるゲームなんだな。そのなかにも、法律や慣習といった、ほとんど「ゲームのルール」に近いものもあるのだけど。そういうものが、社会の基礎・基盤となって、生活と言う名の「ゲーム」を支えている。
そこで法哲学や倫理学の話にもつながっていくのかな。法律=宣言(○○ハ××デアル)+規範(○○ハ××デキル、シロ、スルナ)というのも、なんか計算論理学(アルゴリズム=論理+制御)に似ているね。排中律を肯定するならば、_禁止=してはいけないという義務_、_許可=禁止されていない_と記述できるのだから、法律の宣言部分以外は「義務」だけで記述できるわけだ。あれれ? 義務っていうのは何か課せられているコトというのではなくて、法律の実行エンジンなのかもしれない。
まぁ、あんまり理解していないので、思いついたことを書いてお茶を濁しておいた。
ただ、本書で違和感を感じる所もあった。組織における役割の話だ。ゲーム理論では、プレイヤーの役割があらかじめ与えられていなくて、役割に関する考慮にかけているというけれど、僕はそうは思わなかった。役割というのは、多分に自生的だからだ。
たとえば、野球やサッカーにもポジションという役割がある。けれど、それはあらかじめ与えられたものだろうか? 野球は内野6人・外野3人というのが一般的だけれど、それは当たり前だろうか。
内野5人シフトとは、野球において内野に選手を5人配置する特殊な守備陣形。
日本プロ野球においては、マーティー・レオ・ブラウンが広島、楽天監督時代に好んで用いていた戦術として知られる。そのため「ブラウンシフト」とも呼ばれる。……要するに「外野に飛んだら諦める、しかし内野の打球は絶対に殺す」というシフト。 *1
サッカーでも、オフサイドがない時代には全員がFWだった。オフサイドが導入されるとフォーメーションは多彩になったが、時代によって、相手によって、それぞれ対抗として最適なフォーメーションが編み出される(メタ戦略)ので、確とした役割というものがあるわけではない。 *2
つまり、ゲームを静的に記述するのも大事だけれど、それでゲームの動態まで記述しようとすると無理があるように思う。ルールと意思の間には、経験に裏付けられた・経路依存的に発展する慣習(役割などもここで定められる)が存在するのだと思う。たとえば、エージェント指向ゲーム理論などでは、少ないルールから規範が自生的に生まれることが観察できて面白い。
人間社会だとそのような自生的秩序の善悪が論じられて、ルールそのものに手が加わえられることもある。そのとき、自生的秩序をルールの一種と混同して、自らの思うがままに変更できると勘違いし、直接的なアプローチをとってしまうと、かえって意図せざる結果に陥ってしまうことも多い *3 ので注意が必要だと思う。
*1:内野5人シフトとは (ブラウンシフトとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
*3:例: 雇用を守るために解雇を減らす → 新規雇用が減って若者に皺寄せが行