だるろぐ

明日できることは、今日しない。

死刑について

死刑廃止論をフルボッコに論破するというコピペは誰の味方なのか - 法華狼の日記 を読んで。

定期的にこういうのが話題になるけれど、みんな少しずつおかしい、と僕なんかは思う。

まず、ひとつ明らかにしておこう。自然にもっている自由(サルの自由)として、ヒトはヒトを殺してもいい。無論、ヒトが殺されたことを恨んで、敵討ちをするのもよい。皮をはいで塩水につけるなどして、気の済むようの殺せばいい。社会さえなければ、人は完全に自由だ。

けれど、今のヒトは社会を構成している。そこでは、永遠に続く殺人の輪廻を停止せねばならない。そのために編み出されたのが、“公共なるもの”としての司法だ。ヒトを殺す権利を停止――たとえそれが仇討ちなどといった被害者感情的に肯定される殺人であっても――し、一定の公正な手続きに則って、刑罰を課す。その刑罰の一種として、死刑がある。

では、死刑は是か非か。

たとえば、ジャン=ジャック・ルソーなどは死刑を肯定した。殺人を犯すモノは社会に対して反逆したのであって、社会が彼を守る必要はすでにない(繰り返しになるが、たとえそれが仇討ちなどといった被害者感情的に肯定される殺人であっても)。

犯罪者に宣告される死刑についても同じように考えることができる。…社会的な権利を侵害する悪人はすべて、その犯罪のために、祖国のへの反逆者となり、裏切るものとなるのである。その人は法を犯すことで、祖国の一員であることをやめたのであり、祖国に戦争を仕掛けたことになるのである。

『社会契約論』

まぁ、それは極論としても、死刑を否定するならば、歴史的な司法の成りたちをまず検証すべきだろう。争いやめましょう、殺す権利取り上げます、代わりに死刑作ります、やっぱり死刑はいろいろ都合悪いのでやめます……じゃぁ、その代わりは? 仇討ちでも解禁するのだろうか。殺人は死刑、殺人はよくない、ならば、死刑はよくないというのは三段論法としてもおかしい

今の日本の司法では、改善刑論・教育刑論の概念が取り入れられているし、一人を殺せば即死刑に処せられるわけではないわけで、廃止を急ぐ理由は見当たらない。

なかには冤罪の存在を理由に死刑を廃止すべきと主張するヒトもいるだろうけれど、それは冤罪に至るプロセスに課題があるのであって、死刑そのものの是非には本来関係がない。なぜなら、冤罪があるから死刑を否定するという論は、100%冤罪がないのならば死刑を認めるという論と同値だからだ。ならば、司法プロセスを改善すればよい。また、死刑は残酷だから廃止すべきという論とはまた別系統の論議であり、そこには主張の根拠の混在が認められる。死刑は残酷だから廃止すべきという主張も検討に値するけれど、ではほかの刑罰は残酷じゃないの? と言われれば、少し主張としては弱いように感じる。殺されるのと一生(に近い時間を)牢獄で暮らすのはどちらが残酷だろうか。

まぁ、ここまでの議論をちゃぶ台返しするようで申し訳ないけれど、死刑をなくすのはとても簡単なことだ。ただ、殺人と内乱・外患誘発、爆発物の使用をなくせば、死刑に処せられるヒトはいなくなる。*1つまり、事実上廃止される。

死刑云々で議論するより、死刑になる犯罪をなくすほうが、建設的だと思わない?